二十二章 全ての諦めを踏破するが故に

 視界が全部絶望に染まる、海晴はただ何でその人がいるか分からなかった。
 自分を認めてくれた唯一の人が殺されその結果現れたのはかつての家族、それの人物の年齢的変化は殆どなく海晴が知っている二十二程度の姉にしか見えなかった。傷持ちと呼ばれても仕方のない茶色が混じっているにしろ黒く長い髪、快活で動き回るためだろうその長い髪を纏めている所なんかも変わっていない。海晴より高い身長なんかもそうだ。
 どちらかと言えば父親似なのだろう海晴と違い、整った顔の造形から来る魅力は周りの人間を纏め引き連れるだけの力を感じる。だが今はただ驚きに目を丸くしているが、そんな姿もどちらかといえば愛らしく感じてしまうだろう。

 何もかもが懐かしかった、本当に懐かしかった。彼が自分自身すら拒否して消えてしまおうとした、存在の一人が目の前に現れていた。
 懐かしくて懐かしくて、吐き気のするほど懐かしくて、血反吐を吐きそうな光景がそこにはあった。彼は自分の感情さえ分からない、今まで理解していた決意さえ忘れたようにその場で硬直している。

 これが世界が彼に送る最後の絶望だ。目の前が遠くなりルッコラの声さえ忘れそうになる。
 彼の体中から疑問と言う名の吐露があふれ出し、くすぶるそれが泣き出しそうだった。ただ驚いて周りを見回し、左右に揺れる尻尾のような髪がやけに彼女の愛らしく見せる。そのあわてた彼女の視界の中によく見知った弟の姿が入ったとき彼女は目を丸くしてしまう。

 彼が傷だらけである事には見慣れているが、明らかに海晴は致命的なダメージを体に負っていたのだ。どうしても彼女に動揺が走る、だがここがどこかも分からない疑問も溢れ、これが夢の出来事のように足場の無い不安定感を彼女は感じていた。

「これか、なんだよこれ、なんだよ本当に、答えろよ。何でこんな事ばかり起こるんだ、何で俺の最初の願いさえ奪った、答えろよ賢者」

 ただ聞いた事もない弟の慟哭は、彼女を嫌でも正気に戻させるのだ。
 立ち上がっているだけで精一杯の体の力を全て使うつもりなんじゃないかと思うほどの迫力が彼の声から力あふれ出す。

「私の願いのためだから、勇者に会うためならもうなんでもするんですよ私は」
「それがこれか、よりにもよってこれか、これがか、これがお前の手段かよ。認めてたまるか、俺はもう諦められないんだぞ」

 叫ぶように吐き出された言葉にようやく彼女は弟を認識させる。どうにも海晴がいなくなっていくつの時間がたったのか分からないが、海晴は既にこの世界で五年の時間を過ごしている。その間の経過が彼の昔の空気を完全に消し去り、本当に弟かと認識した後でも舞蝉は疑問が頭の中に溢れていた。

「海晴、海晴じゃないの、何でこんなところに、あんたがいなくなって二年もたったのに」
「黙れ、黙れ、黙れ。喋るな、呼ぶな、あんたなんかが俺の名前を叫ぶな」

 耳を塞ぎながら海晴は首を激しく振る、決意が鈍ってしまうのが体のいたるところに錘でもつけたように重くなってしまうことからも理解できた。
 これは病気のためじゃない、それはルッコラを刺した時と同じだ。心が拒否する自分の心にある感情が、死と言う言葉に押し殺されつつある彼の体を感情で屈服させつつあったのだ。

 彼は異世界に着たかった、ここに来れば家族とも会わずにすむから。無用な希望を抱かなくてすむから。
 いつかは家族が自分を認めてくれると信じてしまうから。そんなひとつたりともない希望にすがり生きていく恐怖があった、だから勝手に就職して家から逃げ出すつもりもあったのだ。
 それは多分始めて諦め絶望した時の行動だろう。

 会いたくなかった、それは穢れた自分を見て欲しくなかったのかもしれない、ただ彼にとってこれほどの剣はなかった。
 家族がこんなところに召喚されるだなんて思ってもいない、奇跡は二度起きないからこそ奇跡と言うのだ。つまりは彼が呼ばれた事さえ必然に過ぎない、この程度の事は世界と言う奈の運命の濁流の一つに過ぎないのだろう。
 運命と言う流れがあろうと、その支流に逃れようと、海と言う目的に届くのであれば全て決まっていると言うだけの話。

「海晴何で私にそんな生意気な態度をとってるの」

 口調の割りに声はどこまでも弱々しかった。ここにいる海晴は、彼女が知っている海晴と明らかに何かが違う。
 ただ気味が悪いほどに血だらけで、それだと言うのに彼女の知らない不遜の表情をしていた。けれど彼女はいつもと同じように声をかける、それこそが異世界における海晴の日常の断片なのだろう。

 絶望の錘を体にまとって、本来の感情を押し隠して、数秒の沈黙の後二口を開いた彼は、過去の絶望に真っ向から向き合うしかなかった。

「……で、いつまで、俺の姉のつもりでいやがる」

 海晴は絶望の錘を背負わなくてはいけない。体がどんなに重くなって動けなくても、頑張らなくてはいけない。
 手が震える、それは別に病気の所為でもなんでもない。彼は拒否しているのだ、今から自分の行なう行為に、だがやめる事などできない。頑張らなくてはいけないから、彼は殺してきた、唯一つの目的を成し遂げる為に。
 その屍たちを海晴は裏切る事ができない、どれほど呪っていて恨んでいても、この国を滅ぼしたとしても、彼にそれが出来るはずがなかった。

「私はあんたの姉じゃない何を言ってるの」

 この時薄く賢者は笑った、癇に障る表情と声に海晴も声を荒げそうになるが、声より先に溢れた血が言葉をさえぎった。
 だからこそ余計に賢者は感情が高ぶり、喜びと言う発散の方法ではなく悲劇への道のりを作り上げた。

「無理です勇者様、貴方の弟であろうとその存在は最早関係ないのです。この男は既に百万の人間を殺しているんですよ、声など届きません、貴方の声では止まるはずがないのです」
「あ、なにそれ、知らないわよそんな事、大体こいつがそんな大それた事出来るはずがないでしょう。所詮犬よこいつは、誰に私達に尻尾を振って生きていくのが精一杯の男なのにそんなわけないじゃない」

 確かに現在進行形で彼は、目の前に居る姉を殺すことを躊躇い続けている。誰か助けてと空に声を上げながら。
 それでも彼は止まらないと言うのに、勇者はあまりにも過去の海晴を見すぎていた。

「黙れよ、黙れって言ってるだろう、何で俺があんたを殺さないんだよ。理由がないと思っているのか、本当にそう思っているのか」

 頑張る、頑張れ、ただ前を向いて、この諦めたる絶望の根源を真正にむけて。
 姉にきっと彼の感情は分からないし届かないだろう。それでも一度でも彼女が彼を認めてしまえば、きっと海晴は全てを裏切ってしまう、それは希望のように彼が願ったうえでの言葉だ。そんな海晴の気持ちさえ勇者はきっと分からないだろう、真正面から感情をむけてくる海晴を見たことなど彼女は一度としてない。

 だからただ海晴が生意気を言っているようにしか聞こえない。
 そもそも彼女はこの異世界に来て初めての人間だ、殺人などと言うものは真空管の奥の物語に過ぎない。だからこの目の前にいる弟が自分を殺すなど考える事もできない。全てがドッキリと思っていても仕方ないのは無しなのだ。

「当たり前じゃない家族でしょう」

 そして何よりその重い絆が確信を導き出した。
 賢者はその声が聞こえなかったが、どうしようもない引き金を引いた事だけはわかったのだろう表情を固めた。この場で一番の戦力を誇るのは勇者である舞蝉だろう、そして最も弱いのは海晴、だが危険なのも彼だ、小細工しかない彼だからこそ何をしでかすかわからない恐怖がある。
 何より血の気の引いた海晴の顔はその言葉一つで変貌した。

 家族、海晴にとってはそれほど重い言葉はない。願った、いつかきっと家族も自分を認めてくれると、生まれてからそれだけを祈り家族の為に耐えて来た。
 願い続けた結果は諦めだった。ただ一度だけ海晴はそうやって家族から逃げた、けれど彼はこの世界で希望を見た。たった一つの幸せを感じてしまう、それは彼が望んでい止まなかった願いでもあった。
 ルッコラ達だ、彼女達がいたからこそ幸せを知った。そして絶望を、何より感情を、だからこそ彼女が知らない海晴が現れてしまう。

 それこそが止める事さえできない殺戮を作り上げた海晴と言う人間の感情の一つ、その名前を怒りと呼んだ。

「ふざけるな」
「え」

 だからこそ彼女は知らない、海晴と言う人間の激情を、本人さえその感情をもてあまし悲劇と言う悲劇を作り上げた。
 そんな人間の発した声は賢者すら知りようのないほどに、無差別な暴虐を感じさせる。それはかつての王法使いとも違う非常識な代物だ、ただの感情がいや感情だからこそだろう。
 誰もが理解するのだ、それは失敗だと。

「俺の家族はあんたじゃない。都合のいいときだけ家族ヅラするなよ、あんたが何で俺の家族なんだよ。いつあんたが俺を家族と認めたんだよ」

 言えよと睨み付けた、何もかもが失策だっただろう。彼を家族と認めてくれたのは、結局ルッコラだけだった、何より海晴を認めてくれた人はルッコラしかいなかった。
 その一言だけで彼は全部を取り戻す、瞳に写る感情が烈火のような激情でも仕方ないのだろう。ただ一人だけ理解出来ない彼女は、海晴の変貌をここで理解したのかもしれない。

「奪ったくせになにを言う、俺の大切なものを奪ったくせに、家族が何で奪うんだ。何故俺の全てを奪った、返せよ、返してくれよ、俺の家族を返してくれよ」

 ずるりずるりと体を引き吊りながら歩いていく。
 家族に家族を返してくれと祈る男は、あまりにおかしく写るだろうか。願いと言うのはそれだけだ、海晴は理由の全てを排除したとしても、もう一度だけルッコラの声を聞きたかった。ただ一言頑張れともう一度言ってほしかった。

 だがそれは許されない、お前の言っている事は誰もが言いたい言葉だったのだ。

 幾万の家族を奪ったこの男がそれを許されるはずもない。
 彼はそう言う言葉をかけることすら許さず殺した人間だ。だから同じなのだ、誰もが彼のように理不尽に殺されて、その暴力に流されて死ぬ。だからこそ彼の生き様全てが劣悪なのだろう、自分だけそれを望んでしまっている。
 それに気付くだけで海晴は自身のことを殺してしまうほど憎むだろう。だが今それはない、賢者や勇者はその海晴の変容に、得体の知れない気持ち悪さを感じて何も話す事ができなかった。

「生まれて初めてだった、ただ一日が幸せだった日々が、幸せだったんだ。メルエがいて、おじさんがいてルッコラさんが居た、ちょっとにもつ運びに手間取って貧弱って言われて、メルエさんにどぎまぎして、学校にいって勉強してあの三人に褒めてもらえる日々が、それだけで良かったんだ俺は、それ以外いらなかったんだ」

 それは彼に起きた奇跡の話。たった一度で、一つだけの奇跡、たかがそれぐらいと言われるかもしれないぐらい。
 けれど海晴にとってはそれだけが全てになった。認められなかった全てから、生まれて始めて与えられた輝きは、それだけで奇跡に見えてしまう。

「知るか前の家族なんて知るか、何度も望んで結局俺はただ自分が生きていていい場所が欲しかっただけなんだ。それを奪ったのは誰だ、お前らじゃないか、俺の全てを奪ったのはお前らだろう、一人じゃない時を知ったらもう戻れない、戻れるはずがないだろう。それを知ってしまったから、どっちが大切かも分からなかった、俺はこの数秒前まで裏切りさえ考えてしまった」

 もしかしたら、ルッコラの代わりに認めてもらえるんじゃないかと、そんな淡い希望を抱いてしまった。
 彼にとって全てが幸せだった時代にしか目を向けることが出来ない。いやそれはその幸せを奪った事に対する怒りなのかもしれない、その怒りから逃れるように姉と言う現れた奇跡にすがってしまおうとした。
 自分を息子といってくれたルッコラさえも裏切ろうとして、あまりに弱々しく歩き勇者の前にまでいて彼は胸倉を掴んだ。

「出来ない、それでも裏切れないんだよ俺は、あんたが家族だってふざけるな。何でだ、ならなんで認めてくれなかった、望まなかったさそれなら、世界から俺が消えてしまえなんて。答えろよ、なんで父さんは俺を憎んだ、母さんは俺を無視した、あんたはなんで俺を見捨てた、何で俺があんな虐待を受ける必要があった」
「あら、勇者が子供の虐待をしていたのですか。恐ろしい事です、それだけであなたが異端だったからでしょうが」
「知らない、知るわけないじゃない、あんたの事なんて私が知ってるはずないじゃない。ただの弟じゃない、なんでそんなにおかしなことを言っているのよ」

 彼女はまだ何も知らない。海晴がここでなにを経験したかも、そもそも自分の弟との年齢差が狭まった事すら分かっていないのだ。
 二年と六年近い月日この間に起きた地獄を彼女は知らない。だからどう叫んでも、海晴の声が姉に届く事はあり得ない。ただ久しぶりに会った海晴が、自分に逆らって馬鹿なことを言っているようにしか聞こえないのだ。

 だから彼の言葉は届かない。どれだけ必死に叫んでも、世界の剣はここにさえ突きたてられる。
 この彼女の言葉さえきっと海晴は痛めつけられる、けれどそれも全て仕方ないのだ。彼と彼女は生きていた世界が違う、ならば常識が違うのは必然だ。それが違う世界に生きていくと言う事なのだ。

「結局これしかないのか姉さん」

 だからこそ全てが通り抜け全てが台無しになった。ただぼんやりとした頭で、服を揺さぶっていたはずの手は白磁の肌に触れる。
 それこそ愛撫のような手の動きは、彼女の首筋を舐めるように這いずり、いきなりの事に動揺して赤く顔を染めた。そのいきなりの海晴の行動に賢者さえも一瞬止める事を忘れたほどだったが、その全てが全てのお仕舞いだった。

「なによ、また訳の分からないことでも言うつもりなの」
「お願いですから、死んでください」

 そこに色事なるあるはずもなかった。艶かしく首を撫でたかと思うと、次の間にはその首に、まるで蛇でも這いよるかのように、指が二度揺らめき確実にゆっくりと首を絞めた。一瞬で気道を完全に近い形で塞いだのだろう声を出す事も出来ずに、かすかに抜ける空気の音が悲鳴のように響く。
 賢者も流石にその光景には驚いた、ここで海晴が勇者を殺しに掛かるのは想像できていたはずなのに、先ほどまでの彼の発言や行動を見ていると、そんなことが出来ない高を括ってしまったのだろう。情が深すぎるのも海晴の特徴と言えば特徴だ、家族を殺すということなんてできないと、どこかで思っていたのかもしれない。

 けれど海晴は彼女を家族と否定した。
 必死にもがき苦しみ助けてと願う勇者の姿に、賢者は何も出来ない。止めようと思うのに、何かそこに近付いてはいけないと本能が呼びかける。歴戦の英雄が二の足を踏むだけの何かの予感があるのだろう。

 なにか予測し得ないものが生まれるようなそんな予感を感じて動けなかった。

「大好きでした」

 そんな風に首を絞めながら海晴は泣くように言葉を漏らした。
 その表情は彼女が何度も見たことがあった本来の世界での海晴だ。どこか気弱だが笑顔を絶やさない、そして彼女達に見せる深い愛情さえも何一つ変わらない。だが既に彼の言葉は過去のものだった。

「どれだけ認められなくても僕は、父さんも、母さんも、姉さんも、大好きでした」

 彼女に言葉は聞こえているのだろうか、首を絞めて悶絶しながら必死に海晴の手を掻き毟り、長い爪で彼の皮膚を抉りながら真っ赤に腕を染めていく。
 だが海晴は手を離すことなどなかった。見るからに顔を変容させていく姉になおも優しく語り掛けるその光景の気味の悪さに、最早呆然とするしかない賢者は、何かおかしな物を見ているようにさえ思えた。
 死体愛好家と変わらぬように命の無くなるその姿を愛でている様にさえ見える。

「だから死ねよ、死ね、あんたがいるから望んでしまうんだよ。希望を見てしまうんだ、死ねよ、死んでくれよ。死んでください、僕はもう貴方を殺さずにはいられないだ。だから諦めてください、姉さん頼むから」

 ゆっくりと彼の腕を掻き毟っていた手の力が弱くなってゆく。それ確認しながらも懇願のようにささやく、死んでくれと願い続ける。
 お願いだから死んでくれと、百万殺しは本来止めるはずの賢者が自分の邪魔さえしないことを不思議にも思うことなく、家族の殺害に全てを意識を注いだ。家族のためだけに全てを費やした男は国ひとつの人口を殺戮してもなお殺せなかった存在に殺意を向けていた。

 後数秒もしたら姉の息の根は止まるだろう、もがく力さえ止まりつつあるのだ。
 綺麗なはずの課をが白目を剥いて、その造詣を台無しにしているが海晴はそれさえ愛しそうに語りかけるのをやめなかった。

 けれど結局姉は死ななかった。

 海晴のほうが先に限界を迎えたのだ。彼が継承によって抱えた副作用は全継承、人の死までは得ないにしても生きている人間であればその全てを喰らい尽くす。それゆえまだあの国で生きているのであろう少女は、最後の最後まで海晴を邪魔し死に絶えようとしていた。
 体中の力が全て消えうせ病の毒が体中に回ったのだろう。その場で痙攣するよう海晴は身もだえ動かなくなった。心臓の鼓動はかすかにあったが、それしか出来なかった。人としての機能はすべてと言っていいほど奪われ、病魔に冒された体はその人間の尊厳ごと停止しつつある。

 酷い咳をしながら震えるように海晴を見る舞蝉は、弟が動かなくなったのを見ると恐怖から解放されたように表情を綻ばせた。
 もともと人をひきつける魅力を持つ少女の表情だ、誰もが彼女の周りに集まりたくなるそんな空気を漂わせながら、倒れた海晴を見ると同時に安心と怒りがこみ上げたのだろう。
 動く事も出来ない海晴の体を踏みつけた。

「何であんたが私に噛み付くのよ、弟の癖に、海晴の癖に、立場が逆じゃない、あんたは、あんたが、何で私に」

 だからこそ許せなかったのだろう。姉は容赦なく海晴を殴りつける、もう命が枯れ果てつつある海晴に容赦のない暴力を続けるその姿のどこが勇者と言えるのだろうか。
 けれどそれも仕方のないことだ、勇者だから優れているわけではない。偶然人間が勇者の血脈が入っているだけに過ぎないだけの話だ、長い経験を経て人は一つの完成を向かえる。
 それが出来ない人間も当然いることだろう、だが齢にして二十程度いや二十年も生きて絶望も喜びも知らない存在が、出来る行為など数限りない。

 ましてやそれが自分が見下していた存在、ただ殴られるだけの存在、立場が逆とまで言い切った存在が自分に牙を向いたとしたら、この程度の事しか出来るはずもないのだろう。
 動かない弟に容赦のない暴力を与える存在に、賢者さえも海晴に少々の同情をする。いまだ意識が戻る事さえない海晴は、その暴力に更に体を弱らせる事になるのだろう。

 ただその暗黒の中で彼は一つの希望の夢を見た。

「おい海晴起きろよ」

 どこかで聞いたことのある声が響いたのだ。そして聞いたことのある喧騒が響いていた。
 寝ぼけた眼を擦りながら海晴は目を覚ます。

「ああ、マイゼミじゃないか。どうしたんだい、ケリー剣術教官との訓練だろう未来の将軍様は」
「何言ってんだよ、俺がケリー教官に教わる事なんてないだろう。それより未来の宰相閣下は、ログオスト教授の授業はどうしたんだ」
「あの人は俺を嫌ってるし、あの程度のことはもう知ってるから別に聞かなくてもいいだろう」

 二人して違いないと笑いあう。
 異世界に召喚された海晴は、学園に通うようになって字がかけなくてイジメを受けていたがそれを救ったのがマイゼミだった。勇者の息子であり、母親に似た所為かあまり勇者の面影はないが、眉目秀麗な若者で誠実さがかみ合えば完璧な青年だろう。
 海晴よりもいくつか年下でありながら、慎重からして彼のよりも高く、鋭い眼光をもちながら柔和な空気がマイゼミと言う人物を年不相応の格を与えていた。

「けどあの文字なし海晴が、いまや学園一の秀才だ。普通の人間と発想が違いすぎて、誰もお前に追いつけやしない」
「そうでもないさ、僕は知ってるだけで使い道がよく分からない。その方向性を今は授業で習っているんだよ」
「その発想がないって言うんだ。お前が国を支えてくれれば、俺が外からの暴力を防ぐ、完璧過ぎるだろう。この貴族社会もお前の思想があれば打倒できるんだ、頑張ろうぜ」
「けど本当はルッコラさんたちと酒場をやりたいんだけど、その辺はどうなんだい」

 そう言う海晴の言葉にあきらめろと言うマイゼミは、その代わりにお前に夢を見させてやると約束した。
 生まれて初めての友人と、奇跡のような輝く世界に彼は軽いの涙をこぼしたことがあったが、それゆえに自分を認めてくれたこの国に全てをついやすつもりでいた。

 何度か場面が変わる、ルッコラ達との奇跡のような日々が続いた。
 マイゼミとの楽しい日々が続いた。

 そして賢者と会った時の自己紹介で、彼の父親が勇者である事を知った賢者は彼がマイゼミの弟である事を知る事になる。

「そうなのか、こいつは俺の弟なのか。けど年齢が上なんだぞ母上」
「召喚されたのでしょう、だからこそ年齢に差異はあれを貴方が兄である事は間違いありません」

 マイゼミは驚き喜んだ。賢者も同じだ、本人ではないにしても一つの救いが現れたのだ。
 彼の知っていることを聞いたが勇者に海晴は虐待されていた事を聞いた。それは多分マイゼミの生だということも彼女は語ってしまう、マイゼミは異世界であるこの世界と海晴の世界の混血児だ。
 故に勇者はマイゼミのことを中途半端に覚えていたのだろうと、姉の名前を聞いて海晴は納得してしまう。

 そして異世界で勇者は人を殺して殺して殺し続けた、その記憶が蘇り男の子供に酷い拒否反応を起こしたのではないかと。

 このことでマイゼミと海晴の間に少しの間、嫌な空気が流れることになるのは仕方のないことだろう。
 俺の所為で海晴は虐待されたと聞いて喜べるような精神をマイゼミは持っていなかった。しかし海晴はマイゼミを攻める事はなかった、彼のお陰で自分は希望に満ちていたのだ。父親の所為じゃであっても、マイゼミの所為じゃないと。

「だから僕とマイゼミは兄弟であって親友だ。それでいいじゃないか兄上」
「なんだよそりゃ、今更海晴に兄上なんていわれても恥ずかしいだけだろう、悩んだ俺が馬鹿みたいじゃないか」

 それでより二人の仲がよくなっていくが、酷い歪が現れた。
 場面が変わっていく中で海晴は何か違う、絶対にこれはおかしいと、心が嘆きだしていたのだ。

「とうした海晴、なんか顔色が悪いぞやっぱり許せないのか」
「いや気分が少し悪いだけだよ。やっぱりいきなりの事実にちょっと参ってるんだろうな」

 それでも彼はそれ以上のことは思わなかった。

「さっさと治してこの国の腐った部分を取り除こう。僕達兄弟ができる最大の敬意だよ」
「当然だろう、頑張ろうな」

 それが兄弟として親友としての始まりだった。
 幾つかの場面が流れる、その全ては海晴が望んだ奇跡のよう日々だった。だからこそ酷く彼は違うと思ってしまう。

 そして犯罪都市の場面でその歪みは決定的なものになる。
 マイゼミとの犯罪都市の掃討作戦だ。ここに着てから海晴の頭痛は酷くなっていく。
 大盗賊の作り上げた都市を、マイゼミと海晴は消し去る事を決定したのだ。本来犯罪の抑止力になるはずであろう、巨大な暴力であった大盗賊が死んだためその勢力争いが激化したのだ。
 そしてその中でも最大勢力である首魁をルッスといった。

 大盗賊以上の器と能力を持つ存在で、彼が頭角を現すと同時に国としての独立をもくろみ反乱を起こしたのだ。
 その沈静を含めて国は派兵を決定した。その敵対の為に軍師として頭角を現し始めていた海晴と、勇者の息子にして国の最高戦力の一人であるマイゼミは国よりその命を受けてきたのだ。

 二人の行動は苛烈で、容赦なく敵を攻めたて三日と持たず犯罪都市は陥落することになる。
 そしてその首魁であったルッスは捕らえられたのだが、ここで海晴の頭痛が激しくなっていった。
 誰もが彼を殺せと言う中、海晴だけはそれだけはしてはならないと言い続けた。だがその言葉にマイゼミさえも否定を下す、だがそれでも海晴は駄目だと言い続けた。彼の何かがマイゼミを殺すことを許そうとしなかったのだ。

「おかしいぞ海晴こいつを殺すのは当然の事だろう。国家の反乱だ、処刑されてしかるべき処置だ」
「いや駄目だ、こいつを殺しちゃいけない。何で分かってくれないマイゼミ」
「おいおい、軍師さんは一体何を言ってるんだ。俺を殺すのは当然の話だろう、敗軍の王に対する処置はそれが打倒だ」

 そんな風に口論をし続けるが、頭痛が激しくなり海晴は倒れてしまう。
 マイゼミは駄目とわかっていながらも海晴が倒れている間にルッスの処刑を行おうとした、だが海晴はどこかでその情報を仕入れていたのだろう。必死に止めた、こいつを殺すなと、駄目だという事はわかっていたが、海晴はこの場でルッスを庇ったのだ。

 大衆全ての前で彼はルッスと言う名の大罪人を庇った。
 それがどういうことか分かっていたが、それでも彼はしなくてはいけなかった。冷めた頭が、彼にようやく思考を取り戻させたのだ。

「それだけはやっちゃいけないだろうが俺よ」

 その明瞭に成った意識は極限の現状におかれながらマイゼミを睨みつける。もしかしたらあったかもしれないそれは奇跡の可能性だ、だがそれは彼の可能性じゃない、また別の存在のにすぎないのだ。
 必死に泣き叫びながら武器を振り上げるその存在に押さえ込んでいた全てを吐き出すように大きく彼は声を上げた。

「それだけはさせることさえ許さない、たとえ家族であろうとなかろうと」

 そしてルッスを庇った海晴はマイゼミの振り下ろす剣に首を切り落とされて息絶えた。

 酷く鈍い音が響く。

 止む事もないようなその音は怒りと言う感情と体力がなくなるまで続くのだろう。いまだ死体のような弟にムチを打つが如き行為を行なう姉を賢者は止めようともせずにぼんやりとその光景を見続けていた。
 これが彼女の夢をかなえてくれるはずの存在かと思う、何もかもが彼女の中で冷め果てていた。実際自身の願いが叶うなんて思ってもいないのだ、ただ彼女はそれでも望んだ勇者に会いたいと、記憶が消えた勇者でもいい。
 恭介に会いたいと望んだのだ。だが願いが全てかなえられるものでないことも分かっている、けれどそれでも彼女は勇者に会いたかった。ルッコラの毒が体中に回り、無理だと分かってなおも。

 海晴と同じく彼女もまた病魔に冒されているのだ。それが体を殺すものか、心を殺すものかは別としても、その毒は二人の存在を殺し続けている事だけは間違いなかった。
 その諦観と俯瞰の中で彼女は一度目を疑う、明らかにもう二度と動く事のない存在の手がかすかに動いたのだ。癒しの王と言ってもいい力を持つ彼女が、二度と目を覚ますはずがないと思っていたのに。

 その時舞蝉の心の中に間違いない恐怖が浮んだ、かすかな胎動だったかもしれない。
 全神経を食い尽くされるような悪寒を彼女は感じる、先ほどまでの嫌な予感なんて非じゃないのだ。力なくゆっくりとだが動く手は姉の足を握り締める。また殺されるかもしれない恐怖に恐慌に陥ったのか、更に海晴を蹴り付けるが。

「やめ……ろよ、痛いじゃ……ない……か」

 ただの言葉が世界に脈打ち、全部が止まって凍りついた。
 まるで心臓が脈打つのと同じように、海晴の心臓が動くたびに世界が止まる。まるでそれは世界を代償にして生き抜こうとしているようだった、足を引っ張るとそのまま姉は転がったが、その代わりに海晴は立ち上がる。まるで天秤のように彼の行動全てが、相手に代償を払わせているように感じる。

 今立ち上がった男は病に殺されようとしていたはずったのにだ。
 本来なら立ち上がることすら出来なかっただろう、今もなお病の証は色濃く顔に刻まれているのに、何一つ変わることないままにまた現れた。

「しぶといにも程があると思わないのですか貴方は」
「ああふざけた夢を見たんでな、嫌でも意地でも目を覚まさないとやってられなかったんだよ」

 病を感じさせずに海晴は自分の近くに転がっていた継承を持ち上げる。クルリと一回転させて武器を構えた、四法無しで叶うはずもないことは海晴も理解していただろう。
 だからこそ彼女は姉を見据える、やけに冴えた頭がこの場で策をくみ上げる。酷く薄く笑うと今度こそ確実に姉の命を奪う為に、継承を体に突き刺した。今まで躊躇っていた海晴の姿が消えうせる瞬間だ。

「なんでよ、何であんたが私を殺すのよ」
「ああそれならこれで終わるだろうこの世界の差しさわりのない悲劇だからだ。ポピュラーだろう家族同士で殺しあうなんて、なあ賢者」

 そんな悲劇は見てきたと軽く言ってのけた。
 何もかもがするりと抜けた、それで世界が動き出したように思える。彼はそれ以上姉に語る口さえ与えなかった、他だけ意見を継承し彼女の中にある因子を強奪してその存在を切り伏せる。
 決別を持ち続けた男は、武器による決別を辞め意思の決別を行なった。

「な……ん、で」
「だって俺は諦める訳には行かないんだよ、ルッスがいる、ルッコラさんがいた、引き連れた信頼も出来ない奴らを俺は裏切れない、だってそうだろう俺がここで手に入れた全ての希望なんだよ。これだけはもう手放せないんだ、ようやく頭が冷えたよ馬鹿は死ぬまで治らないって言うけどまさにその通りだ。死んでようやく目が覚めた」

 ごとんと死体が転がった、ただ召喚されて意味も分からぬうちに勇者は殺され賢者はその光景を呆然と見ていた。
 何が起きたかよりも、人間が勇者を殺した事実が受け入れられない。まだ幽鬼のような姿を写しふらふらと立ち続ける海晴姿をぼんやりと見ているだけだ、その心の内にある混乱を見せる事もしなかった辺りは流石賢者と言うところなのだろう。

「さよなら姉さん」

 だが決定的に全てがおかしくなっていた。
 姉の死体を踏みつけ救世の元に向かう、理性じゃ分かっていても怖くて止められなかった。賢者は海晴をなぜか殺せないでいたのだ、何かが違う、何かがおかしいと、心の中で言い続けていたのだ。海晴がおかしいとかそう言うことじゃなくて、目の前で起こっている全てが何かとんでもない事の前触れのように思えたのだ。
 しかもそれが悪い方向には感じられなかったのだ。

「なあ賢者、異世界に来て一つだけわかった事がある。価値観はその人たちの世界だって事を、それは常識と呼ばれたりするかもしれないけれど、結局違う価値観とは違う世界に過ぎない。だからこそ人は嫌うんだと思うんだよ、自分と違う価値観の存在を」

 海晴はポツリともらす。その言葉には彼のこれまでの後悔と喜びがあった。
 この世界にきて全てが狂ったように思えたけれど、きっとそれはこの世界と言う名の価値観を自分が受け入れられず、結果として起こった悲劇だったと。

「けれどその世界を簡単に返ることは誰も出来ない、そしてその違う世界に出来る人の行為は決まっている。享受か、諦観か、それとも拒絶かだ、つまりだお前が俺の世界行ったとしてもきっとお前は絶望してくれるんだろう、そうだろう賢者。だって俺がこうなったんだぞ、ここまでされたんだ、ここまで追い詰められたんだ」

 彼女は海晴の言葉を聴きながら、救世にゆっくりと向かう彼を止める事すらできなかった。
 なにを言っているのかよく分かっていなかったのかもしれない、ただ彼を止めると言う思考を彼女は頭に浮かべる事はなかったのだ。その手がゆっくりと救世を掴んだ時ようやく彼女は思考を取り戻すが、最早二人の立場が逆転した瞬間だった。

 賢者には海晴が実際のところ勇者であったかなんて分からなかった。ただ口から出任せを言っただけに過ぎない、可能性は一割を切っているとさえ自分で理解していたのだ。しかし救世を握る彼はかつての勇者を髣髴とさせる機動を行い、二人の立場の逆転を告げていた。
 だがこれは海晴が勇者であったと言う証明ではない。姉の勇者権限を継承しただけに過ぎないのだ、だが分不相応の力を持てばその代償が体を襲うのは仕方ないだろう。まるで罅割れのように彼の体に薄い戦のようなものが浮かび上がってきていた。

「なにいってるの、ここで貴方が私を殺すんでしょう。王法を持つことを止められないなかった時点で敗北は決まっていたようですし」
「いやいや喜ぶと思うぞ、勇者に会わせてやるよ。そう言う話だろう、お前は会えるんだよ勇者に、この俺が会わせてやるといっているんだ」

 だが賢者は何を言っているのか理解できなかった。
 勇者と会えるという言葉は彼女にとって何よりも甘美な言葉であるはずなのに、心から湧き上がる恐怖心があった。海晴の言葉だ、彼は彼女に毒を撒いた、許すはずもない存在の優しさは常に暴力である。
 彼女は恐ろしかった、願望であるはずの願いが敵によってかなえられるというその状況が、何にも増して恐ろしく思えたのだ。

「あ、え、なんで、あなたが私に対して慈悲を捧ぐのでしょうか」
「慈悲、ああそう聞こえるか賢者、俺がお前に慈悲をやると言っているように、なあ本当にそう聞こえるか」

 そんなはずなどない、ただ海晴は漠然と殺意を賢者に向けてそれでも彼女を殺さないといっているだけだ。
 彼にとって生きること全てが地獄だ、こんな悪夢のような世界が彼は恐ろしい。けれどそれでもここには奇跡があると信じて、一縷の光明に全てをかけて生きてきた。だがそれだけ地獄を歩んだ彼にとって生は悪夢であり死は救いなのだ。

「そう聞こえるなら後悔しろ、そう聞こえないなら絶望してろよ。姉さんまで殺したんだぞ俺は、そこまでしてこの世界で生きていくんだよ、だからな俺の世界にはお前は必要ない、消えうせろよお前は自分の世界に絶望してろ」

 なによりどうしても許せない相手を殺すだけで、済ますつもりは彼にはなかった。
 彼の体が本当に崩壊を始めている、それはもしかすると彼が本当に勇者ではなかったからかもしれない。それとも救世の力さえもあまるような力の使い方でする反動なのだろうか。なんにしろ海晴の体の薄い線は少しづつだが、体中に亀裂のように刻まれていく。

 怖気が走る、何かとてつもない恐怖が彼女の中にはあった。
 彼の言葉が事実であるなら、彼の殺意が偽りのないものであれば、勇者の居る世界はきっと彼女を滅ぼすのだろう。確定ではないが、そう追い詰められても仕方ないと言う事を彼女は本能で理解していた。

「勇者に会って絶望しろよ、世界に願って後悔しろ、地獄にいて勇者でも望め、どうせ世界はお前を嫌って殺しに掛かるに決まってる」

 賢者は喋る事ができない、勇者に会えるという奇跡が目の前で起こる。だというのに嫌な予感しか彼女は感じない、咽喉の奥から恐怖が声になって表れそうなのを必死になって押し留めるぐらいの事しか出来ないでいた。
 異世界に言って勇者に会うだけで幸せだと思っていたが、それから後はどうなるのだろうそんな恐怖が彼女に突き刺される。
 だが遅すぎる、彼女は海晴の逆鱗と言う逆鱗に触れ続けていたのだ。どこかで止めていたらこうはならなかった、どちらも幸せな形で落ち着いていたかもしれない。ルッコラは殺され、姉を殺し、結局大切だったもの全ては海晴から零れ落ちていく。

 淡く輝く救世から亀裂が入る。それと同時に海晴の体中に線が刻まれ始めていた。
 それでなくても体は限界なのに、更にその体を破壊する行動は自滅以外のなにものでもないだろう。けれどこれしかないのだ、これ以外の方法で彼が生きていくことなど出来るはずもない。
 何もない彼が賭けに使えるのは常に自分の命だけ、そのかける代償に全てを託すのだ。

「いや、いやよ、何で絶望しないといけないの、後悔だってもうしてるのに何で」
「ああそれは簡単な事だ、至極簡単な理由だろう。この世界で俺が殺した人間が俺を許さないのと同じように、この世界でお前が生きていることを許さないだけ。一生地獄に埋もれてろ賢者」
「ただ恭介といかっただけなのになんで、何故私がこんな目にあうの」

 きっとどこまでも賢者と海晴は同じような存在だったのだろう。マイゼミと言う基点によって二人は別れてしまったが、どちらもが同じような心のあり方をしていた所為でここまで追い詰められた。
 さようならと海晴は紡ぎながら、救世の力を限界にまで引き上げる。本来救世は破壊にしかつかえない、それは本質であり確定的な事実だ、しかし王法では破壊しか出来ないはずはない。救世とは本来、王法の中でも特別な部類の魔導機なのである、それは命を大量に使って起動する事からも明確であろう。その能力は事実破壊、運命破壊といってもいい。

「知らない、お前が悪かったのかもしれないし、俺が悪いのかもしれない。けれど被害者面するなよ卑怯者、結局お前の所為であり俺の所為というだけだ」

 そして長きに渡って使い手を求め至上に力を与えてきたが故に救世と呼ばれる事になるが、本来の名前は違う真の名前を夢と言う。それは世界に突き立てる事の出来るただ一つの意思、分岐する運命の一つをもぎ取る万の命を代償にして作られる願望の剣なのである。その夢を達成させる為に使われる能力で彼は一つの破壊を行なう、だが本来そこまでの使い方をするものはいなかった。

 その結果だろうか、酷く救世は悲鳴を上げて魔導機自身に負荷が掛かっている事を認識させ、更に毒のように海晴にその負荷が遅い掛かっている事を理解させられた。

「だからさようなら、生涯苦しみ絶望しろ」

 海晴が魔導機の全てを行使して放つ、唯一つの選択肢以外の破壊は賢者の姿この世界から消失させ一つの世界に具現化させられる。拒否などない、選択肢など彼は与えない、ただ純粋に純悪たる感情を剣に向け呪いを刻んだ。それは祝祭の始まりだ、誰一人知らない海晴だけの祝祭、声さえ出ない歓喜に彼は狂喜しそうになった、全部を失って手に入れたものなんて何一つないけれど。

 確かに何か残ったのだ彼には、転がる姉の死体を優しく触り穏やかな表情を作る。そして顔に掛かった血をぬぐい、せめてと濡れた血で死に化粧をそえた。
 後一つで終わりだ、彼はそう思いながら歩き出す。だが彼が歩くだけで右足が塩になって崩れ落ちた、最後の最後が出来なくてはいけないと言うのに、ここでさえまだ世界は邪魔をしてくる。

 しかしだ彼にはまだ残っているものがある。必死になって夢の世界でさえ裏切る事ができなかった存在たちが、叩きつけられるはずの地面の冷たさを受け入れようとするがその衝撃はなかった。
 やけに優しく彼を支える何かがそれを阻んだのだ。

「本当にやっちまいますか頭は流石化け物だ」
「うるさい、こっちも手一杯だよ。そんなことはどうでもいい、最後の準備は出来てるか」

 だがルッスは一度嫌そうな顔をする。それは二人の最初の約束事だったはずだが、嫌だからこそルッスは嫌がったのかもしれない。
 その言葉の意味する方向がなんであるかを彼は知っているから、だが首肯するどうあってもルッスは海晴の敵になる事だけはしたくなかった。その彼の仕草に酷く疲れているはずなのに表情をほころばせる彼は、本当に嬉しく思えたのだろう部下の態度が。

「ありがとう、本当に感謝するよ最初から最後まで」
「礼なんていりませんよ頭、じゃあ行きますよ最後の最後だ。では俺はあんたを裏切りますよ」
「頼むよ、それが俺の死に様だ」

 それは生涯を裏切られた男の最初で最後の望んだ裏切りだった。 

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