十八章 貴方に会えるその時に

 彼女がルッコラと出会うその二週間ほど前の話だ。

 賢者は感情が溢れさせ少女のように飛び跳ねて喜びを作り出す、普段落ち着いている彼女だからこそ、きっと誰もが予想外だった事だろう。
 けどそれも全ては魔導機の輝きを見た所為だろう。
 あの哀れな道化はとうとう一つの国といっても過言じゃない勢力を滅ぼしてしまった。それをどうやったかなんて彼女は知らないが、絶対に目的の障害になることだけは否応無しに理解させられる。
 絶対に彼は危険である、彼女の知る勇者の甘さがあれば間違い無く殺されてしまう。

 あの部族連合よりも彼は賢しく、卑屈に、下劣であるのだ。
 勇者では殺されてしまう、手段を選ばない存在は毒殺だろうが暗殺だろうが、勝つためなら手段を選ぶ事はないだろう。勇者と直接戦うような事をするほど馬鹿ではないことだけは彼女は理解している。大盗賊でさえ彼の策によって叩きつぶされたのだ。

 だがこれは彼女が望む、彼女だけの願いだ。その犠牲の数などはっきり言ってどうでもいい、自分が殺した数がちょっとばかり桁が一つ上がるぐらいですんだ。
 ならばこちらも本気を出して策でつぶせばいいだけの話、策略は策略で滅ぼす事が可能なのだ。徹底的に策士である相手なら、自分ならどうにでもなると言う確信があったのだろう。

 それゆえに彼女は余裕を体滲ませ悠然と魔導機の元から離れていく。準備は最早万端だ、後は生贄を誰にするかだろう予定だった人間は、別の方向で役に立ったようだし、だれを立派な役目にすえようかと彼女は薄く笑った。
 正直に言えば誰だっていいのだ、だが正式な理由もなく選ばれればそれ相応の反感を民からかってしまう。こうなると少しばかり面倒なのだ、だからそ彼女はあの男に対して介入条件を与える隙を作らないようにと考える。一応選定ぐらいなら彼女の教皇としての力を使えばどうにかなるだろうが、どの穴から彼が踏み込んでくるか分からない、何をしでかすか分からないと言う恐れが彼女の中に芽生えていたのだ。

 多分それは守るものの弱さだろう、いまだ守るものさえない存在は、そう言うことには関わらずにすむ。
 特に今までと立場が変わればそのあやふやさに、弱気になっても仕方のないことなのかもしれない。結局のところ守るも、守らないも、他者に依存しているか自己に依存しているかの差に過ぎない、そんなものに明確な差などないのだろう。
 ただ自己による物か、他者による物かによる物にとって、最大の弱点はその他者である事が多い。

 自分はどうにかなるだろうが、他者は自分ではどうにもならないからだ。
 そして他者を守るものは自分はないがしろに出来るが、自己に依存するものは自分をないがしろに出来ない場合が多い。故に天秤は均衡を保つのだが、今回の敵は少しばかり、彼女は自分を守りつつ勇者を守る必要があり、海晴は実のところ感情のままに破滅を繰り返す事しかできないだろう。彼に自己の保存などと言う機能は最早ないに等しい。

 疫病の楽園を一人で歩いていた、彼にそんなものがあるとは思えないのだ。
 だが賢者はそんなことは知らない。知っているはずもないが、それでも戦場を生き延びた彼女の勘が海晴と言う人間がなにをしでかすか分からない危機感だけは感じていた。そしてこの感覚こそが彼女を生き延びさせてきたものだ、この予感に外れなどなかったからこそ。隙を消した、策と言う水が入る隙間を全て固めた。
 だからこその自信もあった、これであとは生贄だけだと。これでまた一月、二月悩むのかと思うと酷く疲れるが、このたるみが自分の障害の最大の欠点になっては困るのだ、だからこそ勝って兜の緒を締めよという言葉があるのだ。

 こんな揺らぎ一つを欠点にして溜まるかと彼女は息巻いた。
 だがもう一つの思考もある、彼女の敵に時間を与えてはいけ無いという事実も。犯罪都市はそれで滅びた、殺人と言う状況になれていた彼らにとってちょっとしたいさかいからの殺人は良くある話だった。何気なく紛れ込んだ旅人が殺されるのも、そんなことが当たり前の国だったからこそ、彼に対する情報が不足し徹底的に台無しにされた。
 最も殺された死体も全て彼は使ったようではあるのだが、そう考えると彼の殺した人間の数は実は半数まで落ち込むことになる。

「本当に最低な存在、マイゼミを殺してから何度倒れても諦めずに起きあがるの」

 それはある意味彼女の罪だ、母親であるからこその失態があるが気付くとは残念ながらないのかもしれない。
 人並みの幸せを必要以上と、言ってもいい程の幸せと思っていた彼の全てを台無しにしたのは、彼女の息子であるマイゼミだ。海晴と言う人間の幸せを根こそぎ奪ったのは全て、マイゼミと言う名の彼女の息子であり、自分が親としての無能を晒しつつけた代償だ。
 これはある意味最初から最後まで彼女と彼の因縁になるだろう、民の為に政治に身を捧げた彼女は家庭を放棄した。虐待の末に全てを家族を諦めた海晴、結局のところ同じもの同士であるのだ最初から最後まで。

 けれどこれは僅かにずれた運命の話だ。もし彼女が少しでも息子の事を考えていたのなら、これは間違いない事実として海晴とマイゼミは兄弟のように仲良くなっていた事だろう。だがそれは全部ずれた大河の中のありえない支流の話だ、笑って済ますにはあまりに悲劇な話。

 そんなことも全部ずれてしまった。本来であれば海晴にあったかもしれない幸せの話だ。ある意味これがハッピーエンドだったかもしれない、そうすれば彼は賢者とだって仲良く話すことができただろう。今とは確実に今とは反対の関係になれただろう。
 しかし彼女はそんなもう一つの運命なんて知らないし、どこまで言ってもこれが現実だ。だからこそ何も知らずに厄介すぎる敵に歯噛みしながら、自分の欲望をかなえる為に、敵と同じく下劣を極めるのだろう。

「全くその辺のゴキブリよりも性質の悪い事この上ない。殺す以外の手段で、あれが立ち上がらない事なんて多分ないんでしょうけど」

 そういいながらも賢者はどこか薄ら笑いを浮かべている様に見えた。
 自分の髪を軽く後ろに手櫛で後ろに軽くさらい、調べさえていた海晴の今までの経歴の資料を見始めた。だがそれは彼がこの国に到着した四年ほど前から途絶している、だがそれからの経歴も正直な話悲惨極まりなかった。学校内で最優秀の成績を取ったあと、彼の住んでいた酒場の人間は娘は陵辱されたあげく奴隷として売られようとしているところを父親が止めようとして両名殺害されている。

 海晴自身に何の落ち度もないことだが、彼が傷持ちと言うこともありルッコラや彼を知る人間たちは、悪魔が不幸を持ち込んだといい彼に酷い暴力を振るっていたようである。

 学園を退学になるまで学園内でのイジメ、町に出てからの彼の住処への放火などが相次ぎ眠る事すら儘ならないほど彼は追い込まれていたという。そんな中でもある程度の結果を残していたらしく、終戦第一期生の中で唯一の四法魔導機の正式取り扱いの資格を所持している。また彼が残したレポートは、当時の彼の小さな抵抗であるかのように、政教分離や身分差別について必死に書かれてあった。

 そんなものがこの世界に受け入れられるはずが無いと言うのを分かっていても、それぐらいの事はしたかったのだろう。
 自分のあまりにも悲惨な現実に対する、せめてもはかない抵抗のように思えて彼女は笑みをこぼした。

「こんな無駄な事をやっていたなんて驚きですよ」

 最もそのレポートの正当性に関しては否定できなかったところはある。
 この世界に生まれてきて神を敬わず、身分を問わないその性質は勇者に通じたところがあるが、どうしても認める事の出来るような代物ではない。特にこの国はそれは少しばかり早すぎるし、思想の根がどこから生えてきたのか分からない、異端の知識のように思えるのだ。
 これは魔法や魔導機と言う奇跡がある世界で許されるべき知識ではない。倫理法はこの思考によりただの医療技術に変わり、神はただの心の安息に変わる。

「そしてここまでふざけた思考をしている事自体が不愉快です。あの男はどこまで言ってもこの国の全てが嫌いなようですし、どういう形であれきっとあの人間は殺されてしかるべきだったのでしょう」

 あまりにも正しく、そして神秘を否定したその思想のあり方に身震いさせ起こす。
 彼女にとっては神は道具だ。だが倫理法も魔法も全ては世界の恩恵であり、それそのものが超越存在の証明になるというのに、このレポートにはその全てが否定されていた。海晴と言う人間において倫理法を使う人間も、魔法を使う人間も、傷持ちも、所詮人間であると何も特別なところなど無いといっているようなものなのだ。

 それはよろしくない、そんな事を考えるから世界に食いつぶされるのだ。

「けれどそんな思考を持っているからこそ、いまあそこに勇者を必要とするような世界を滅ぼす存在になってしまったんでしょうが」

 その人物の名は汚らわしく、どうしようもない人間。百万殺しのアマハルである。
 だが彼の恐ろしいところは、そう言う思想の部分じゃない。行動が分からないところだ、まるで気付かないうちに進行する病のような性質、個人で動いているからこそ殆ど足がつかない。そして何より彼は部下に向かって何度か魔導機の伝聞で会話をしていると言うのに、ログに残った文字は彼らが理解できる代物ではない事だ。

 誰に見せても分からない暗号体型で、彼女にはどこか見覚えのある字ではあったが、それがどういう意味を持つかまでは全く分からなかった。

 こんな男だからこそ、いつなにをしでかすか分からないと言う恐怖がある。
 どこで、どんなタイミングで、どんな風に、それはまるでゲリラ戦のような代物だ。かつてこれで海晴の世界で最大の軍事力をもつ国は追い詰められた事さえある、そんなどこからでも襲いかかれるという意思を見せ付ける存在、普通であれば無視されてもおかしくないが、一つの国を滅ぼすというあまりに馬鹿げた行為を成し遂げた故の恐怖がある。

「まさに規格外、どうやればあんな風に出来るの。まるで私達の社会の致命的な弱点をついている気がする。本当にこれは不味い事です、ただ隙をなくす事だけを考えないとどうしようもないでしょうね」

 対策はそれぐらいしかない。考えれば考えるほど厄介だ、なんて面倒な敵だろと本当何度も歯噛みする。
 だがこちらも負けているわけじゃない、力と物量においてこちらは圧倒的だ。あちらに勝っていないわけじゃない、こんな時に魔導王がいればきっといい知恵を授けてくれたのだろう。けれど彼女はそれを容赦なく切り捨てた、自分の傲慢なミスが腹立たしいあらゆる意味で自分が作り出した障害が多すぎる。

「本当にこんなタイミングで、何の力も無い市民の一人が私を追い詰めるなんて事どう想像すればいいんです。負けられないんですこの戦いだけは、全部切り捨ててここまで来たんの、恭介に会うためだけに全部捨てたのに何で邪魔が入るの、なのにどこまで世界は私の不条理なの」

 こういうところだけはきっと海晴も彼女も同じ意見なのだろう。
 だが世界とはそう言うものだ、この二人が違うところはきっとここだけ認められない世界を破壊する海晴、世界のルールを使って自分の孤独を消し去ろうとする賢者、二人が似ているようで違うのは実際ここと、少し前に語ったことぐらいだろう。

 世界で生きている以上、それを憎むものから邪魔されるのは当然の事であり、それこそが海晴がこの世界で殺されようとしている事実なのだ。この世界には慈悲が無い、どの世界にも慈悲など無い、そんなものがあるとするなら無慈悲と言う言葉だけだ。だからこそ必死になって生きていこうとするのだが、いまは敵とも思っていない存在がどうあっても敵にしかならないことに対して過去の自分の迂闊さを今更嘆いている彼女は少しばかり必死になる時間が遅かったということだろう。

「諦めない、絶対に諦めてたまるものですか」

 そんな風に決意を口にしながら書類を漁る、海晴の弱点でも知ろうと考えてのものだろう。だがそれが彼女にとってはある意味最悪の情報だったかもしれない、そのときようやく海晴を追い詰めた男の名前を彼女は知る。
 希望の光ともいえる救世の復活を知らせた千人殺しの始まり、そして自分の息子を失う理由となった原因。だからこそ賢者はその名前を見た時、目を見開いて驚く事になる。いやどこか海晴が彼女に敵対する理由が明確になった気もした。

 マイゼミ=ミゼイ

 それが千人殺し発端の男の名前であり、百万殺しを作り出す原因となった賢者の息子である。一瞬彼女は呼吸が詰まった、美麗な表情を歪めて激しく咽る。
 五分ほどそんな状態が続いて事実を認識するように書類を眺め再度絶望する。私はここまで自分の所為で自分を追い詰めていたのかと恐ろしくなった、原因があるから結果があるのは分かるが、それでもこれはあんまりだったのだろう。
 つまりは今まで起きた事は彼女の息子が直接的な原因になってしまったというだけの話。

 だがそれもある意味彼女の思考の範疇だったような気もした。そう言うことであれば、腑に落ちることもいくつかやはりある。

 親としていつの間にか視線を外して見ていた事で、視界に入らなかった全ての原因を覗き彼女は、悲惨すぎる目の前の現実に殺されそうになる。だが同時に賢者は凶暴なまでに目を光らせた、この情報を知っているもの全てを生かすわけにはいかない。この情報がもれるだけで、彼女の失墜はいくらなんでも火を見るよりも明らかだ。
 そう思った瞬間、この情報を集めた男は殺される。その情報を話したものは殺される、その人間と話したものも殺される、皆殺しだ。しかしもう彼女にその手段が無いことぐらいわかっていた。勇者が召喚される前に大量自国民の血を流すことを国が許すはずも無い。

 そして教会側である彼女としてもそんなことが出来るはずもないのだ。
 これ以上に血に濡れれば、彼女の総本山が許すレベルを超えてしまう。最大の宗教国家天の下に祝福を捧げる国が牙を剥く事になっては更に困る。あそこには教皇である彼女を上回る権限を持つ法王が座している、この世界での教皇とは所詮国一つに存在する数々の分派のうちの一つを統括するもにすぎない。
 賢者とて所詮は司祭と変わりはしない。だからこそこの役職を落とされ、外道扱いされれば勇者との接点さえ消えうせる事は言うまでもない。

 そのときやはり彼女の頭に浮ぶのは百万殺しと言う名の道具の事。きっと彼なら知っている者どころかこの国ごと滅ぼしてくれると彼女は思った。だからこそ思考を募らせ彼女は選択する。
 海晴と言う殺戮存在を自国民に差し向けると、ならそのための道具は一人しかいない。

「勇者の供物を決定します。ルッコラ=ルッコランあの百万殺しと暮らした事もある人間です供物には丁度いいでしょう」

 それこそが海晴と言う人間に対して繰り出す賢者の狂気の表れだったのかもしれない。だがしかし彼女はそこで一つの失態を侵すことになる、それは呪いにも似たルッコラの呪詛。彼女を呪う絶対の報復である、ただの人間からの異端認定。
 
 だがそれこそが失敗だった、見なくてすんだ筈の賢者と言う存在の汚らわしさを見せ付けられた。

 本当にそんなことで容易く彼女の足場は全てが崩れる。ルッコラとの会談が終わった後、賢者は怯えるように部屋にこもった。
 ルッコラの言ったことは全て事実で、自分が勇者と顔をあわせる資格があるかと問われればきっと無いと答えてしまう。だって彼女の罪はあまりに大きかった、血に塗れなんかじゃすまない。ただ溢れる命を飲み干して、それを咽喉を潤すように溢れさせ、まるで甘露の蜜の如く命を舐め取った。
 彼女はつまるところ自分に自信が持てなかった。勇者と言う人間の心を知っているから、あの誰にでも降り注ぐ美しい光を知っている。

 その光に目を焼かれてきっと彼女は勇者を見ることさえ出来ない。そんな不安が彼女自身に立ち込めた、恭介、恭介と、必死になって勇者の名前を呼んでも何も変わらない。だって彼女は勇者の為に人を殺して、自分の為に人を殺した、この関係はきっといつかどこかで破綻を来たす。だってそうにしかならない、人殺しが健常者と一緒にいてまともであることのほうがおかしい。

 そらしていた視線を無理矢理向けられた。もうこれはそれはあまりに血だらけで、見たくもないほど彼女の現実を正しく見せていたように思う。これは全てお前の始めた悲劇の代償だと、お前は勇者に会うことなんて許されないと、彼女の作り上げた犠牲が叫んでいた、今になって湧き上がる罪悪感に彼女はとめどない恐怖を感じた。この罪が勇者と会う事を許さないと、そう認識させるほどに彼女は深く怯えていた。

 彼女本人でさえ何に怯えているかも分かっていない。だって生きていることがあまりにも苦痛で何も答えられないのだ、この苛む孤独と言う名の毒は生涯人間を追い詰める地獄に過ぎない。その毒に犯され解毒の術すら否定された女は怯える、世界は一人で生きていくにはあまりにも重い。だから他の仲間がいるのに、彼女はそれを認めることが出来る生き方をしてこなかった。

 だから鏡面の二人はどちらもが同類であり、どちらもが同類たり得ないだけの理由をもつ。
 同じ思考のままに世界を暴虐に導いた二人は、たった一つが違う故に全てにおいて違う道を歩んでいる。依存した存在が自分であるか、他人であるか本当にただそれだけ。その全てが彼女の土台を崩しつつある、何もかもが終わったかのように何も出来ない賢者はただぼんやりと世界を覗くだけだ。
 けれど彼女は諦めたくなかった、それだけは諦めたくなかった。

 海晴もこうやって追い立てられた、地獄のような世界の現実をまざまざと見せ付けられて。自分と言う人間の孤独を容赦なく突きつけられて、それでも認めてくれた人が居たと言う現実だけで生きていこうとした。その毒は彼の体を蝕んでいたと言うのに必死にそのことから目をそらして必死に、幸せだった頃の彼の奇跡のような日々を思い出して生きてきた。
 祈る、賢者は全てを救ってくれる勇者が自分の元に現れてくれる事を必死に祈った。 

 けれど彼女は勇者の顔さえ思い出せない。そんな記憶の殺害さえ今の彼女には恐ろしい、これが、こんな事でもしかしたら勇者はこないと考えてしまう。何もかもが一人の人間を追い詰めていく。これの所為で勇者に会えない、こんな事をしているから勇者に会えない、それが彼女に恐怖として突き刺さる。
 それが彼女の孤独をなお悲惨に彩る。まばゆく輝いた光の道を彼女は自分で台無しにして言った様で恐ろしかった。自覚してしまったから、自分が人間を殺した勇者に敵である事実を認識させられてしまった。

 怖いのだ、記憶の無い勇者が彼女に向かって殺意を向ける姿が、怖いのだ、勇者がまた彼女を忘れている事実が、怖いのだ。
 自分の今までしてきた事実が全部自分の望みを壊し続けている事実が、忘れていればよかったものを気付かされればもう後悔しかない。孤独に我を忘れた賢者はようやく認識した事実に声を干からびさせる。
 終わってしまった事だけは彼女も理解できる、そんなものを作り出した英雄の末路は決まっている。

 忘れたいと思ってしまってもそれは仕方のないことだろう。総計三十八万六千三百九十人、それが今回の海晴が起こした事件や異端者処刑の死者であり勇者の生贄の数だ。この国の総数約八十万人であり犯罪都市も当然この数の中に入る、海晴を使い国の半分の人間を根絶やしにした事実は消せるはずが無い。だが怖くて忘れられない、忘れたくても犠牲たちが許さない。
 犠牲たちは彼女にのしかかり、勇者を呼べと急かす。だが今の心持で彼女が望んだ勇者を呼び出せるはずもなく。ただ悲劇の前倒しが待っているだけに過ぎない、また世界が作り上げた海晴と言う殺戮装置が賢者によって解き放たれるのだ。

 次は皆殺しかもしれない、国一つ全てをなぎ払いかねない何かをしてくる事ぐらい彼女にだって理解できる。
 だからこそ彼女の罪は更に重くなる。勇者に会う意思がへし折られていく、何もかもが彼女の所為でありながら全部それが自身を追い詰め思考は泥濘に入ってゆく。最早自分の住まいとも言える教皇の部屋の一室でうずくまりながら震える姿は勇者を失った時以来だろう。
 けれど彼女の心は勇者にすがるしかない。それ以外の選択肢を彼女はもう持たない、だから必死に思考する、おびただしい地獄を作った自分が許される道を、そして救われる道を、ただの一言が全てを返る。

 それはある意味海晴と同じ、人はその言葉だけで劇的に変わることがある。
 いい意味でも悪い意味でも、人の心は鋼で出来ているわけではない。打たれれば代わり、時として強くもなる、そして孤独の恐怖は人間であれば誰一人耐え切れるものではない。

「忘れないと、こんな事嘘に決まってるんだから、忘れないと」

 だがそんな技術はまだ確立していない。だから動揺を覚まそうといろいろな事をしてみた、その中で一つだけ彼女が思い出すことは勇者のことと自分の罪だけだ。
 必死になって書類を漁る、仕事でもしていれば気が晴れるかと思ったのだろう。あさる書類には全て海晴のことが書かれてある、だがふと彼女はその書類がある年までしかないのに気付いた。
 当然の話だ、海晴は異世界から来た人間だ。それに足取りが途絶える事など、この時代の旅人であればそう珍しい事ではない。

 しかしながら彼女はその足取りが、突然この国から発している事に一つの疑問を抱いた。多分それは本来誰も気づかないことだ、だって国籍不明の人間の足取りを追う事など不可能に近い。だからこそ、そんな事当然だと思うのだが、明らかに彼の足取りはこの国から始まり、太陽門を通った情報もなければ手続きがあったという話もない。それは勝利の凱旋パレードがあった混乱に紛れ込んだのかもしれない。

 それでも彼女は何か引っかかった。それは逃避に力を入れた彼女だから気付いたようなもの、実際彼女はその疑問の所為で恐怖を忘れていた。あまりにも海晴の情報が突然だったのだ、そして何よりいろいろな情報の中に服を売ったという情報があった。自身の荷物を売って金にしたと、それはどこでも見たことの無いような民族衣装でよく分からない技術をもって作られた道具だったりした。

 その民族衣装などは大火によって焼き払われ現物がないようだが、どうにも引っかかる。背中に突き刺さる嫌な予感に彼女は一度身震いをして書類を漁るのをやめようかとも考えた。だがそうすれば、またあの恐怖に囚われると言う本能的な感覚から、そう言った考えを抱く事もなく必死になって思考と探索を繰り返す。
 それもまた彼女にとってはあまりに悲惨な事実になるのだが、最早彼女にはこれぐらいしか恐怖を取り除く事が出来るすべはなかった。何しろ自分の命と勇者の命を根こそぎ持ち去りそうな人間ぐらいしか、その孤独の恐怖を打ち払ってくれる事などなかったのだ。

 必死になって漁る、どこまででも漁る。そう言う風に漁っていたら、一つの書類が彼女の前にチラついた。
 それは海晴が学院に入っる為の書類の写しだ。そこにはルッスと共にやり取りをしていた会話のログと同じ文字が書かれてある。まだこの国の文字を読む事も出来なかった彼は自国の言葉で書いたのだろうとようやく彼女は判断できた。
 
 よほど辺境の生まれなのだろうかと思うほど、彼女には理解しがたい文字だったのだがどこか懐かしささえその文字には感じるところがあった。
 ようやく彼女はその理由を理解する。

「え、なんで、このもじって、え、あれ、え。何で、何でこの文字が、だってこれは、なんでよ」

 そんな彼女だからこそ、海晴の名前を見たときに悪寒が走った。理性を吐き飛ばし、絶望の階段を流れるように上がっていくのを彼女は感じただろう。
 抑えられない衝動が恐怖を飛ばし、机をへし折るほどの力で拳を叩きつける。酷く激しい音を放ちながら、彼女はようやくこの懐かしさに思い当たり、それ以上の動揺と怒りえないはずの不可思議を感情にして溢れさせた。

「なんで、なんなのこれは、なんで、なんなの、こんなことがなんで」

 響くその音に、何人かの従者が教皇室の扉をたたくが彼女がそんなことに反応できるはずも無い。
 そのあまりの事実に目を見開いて、体を震わせ、恐怖以上の悪夢を感じて涙と悲鳴を吐き出す。いろんな理不尽があった、彼女にだってあったのだ、愛した人間を自分の記憶ごと存在を奪われ、その結晶であるマイゼミを殺された。大切なものを奪われた。
 だがそれでもこれほどの理不尽はなかったと、彼女は思って何もできなくなる。

「なんでよ、何でこんな事があるの、何でこんな、何でよ……何、でよ、助けてよぅ。……きょすけぇ」

 甘里海晴ただ、彼のフルネームを見てあまりの懐かしさに悲鳴を上げる。それは彼女の愛した勇者の甘里恭介と同じ異世界の言葉で書かれた名前であった。

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