十七章 届けたい言葉があるはずなのに

 私には一つの後悔がある。

 私があいつと出会って一緒に暮らし始めてからは本当に息子のように思えていた。
 学院で字も読めなくて笑われていても、彼の言葉から溢れる不思議な知識があればどこでも生活できる気がしたけど、絶対に学院でいい成績を残しますと笑っていっていた。文字を覚えてからは凄まじい理解力を発揮して、いきなり学院の成績最上位にまで上り詰めてしまった。

 思えば全部それがいけなかった、けれどそれは彼が悪いわけじゃないのに、基点はそれだったんだ。
 私達家族とあいつが、終わってしまったのはそれが原因だと思う。英雄の息子が私達の全てを壊した所為だ、娘は死んだ、夫も死んだ、海晴は拷問でも受けていたのか体がボロボロになって私の前に現れた。
 実際彼も生きていたのが不思議なぐらいの怪我を負っていたと思う。

 それでも私達の前に現れた、まだ娘が陵辱されている時だ。その拷問されたボロボロの体で、英雄に向かって殴りかかろうとしたのはきっと彼だけだっただろう。だが歩く事すら儘ならない彼は、一瞬で組み伏されて、それから起こる光景を容赦なく刻まれた。
 お前の所為でこいつらはこうなると、たかが傷持ちが俺達をコケにするからこうなると、その笑い声だけはいつまでも私は忘れられない。

 あの日のことは忘れられない。娘は奴隷になって売り飛ばされそうになった、夫は娘を守ろうとして殺され、娘も父親が貴族に逆らったと言う理由で殺された。彼の帰ってきたのはそのあとで、あの時の色を失った顔は私は生涯忘れられない。
 その場で彼は英雄に殴られた、もう立っていることも出来ない彼は足蹴にされ、内臓でも傷つけたのは血を吐きながら、腕を切り落とされた私を救ってくれと頭を下げ続けた。

「僕はどうなっても構いません、お願いですからルッコラさんだけは助けてください」

 必死に彼はそう叫び続けた。聞いた話では拷問されても屈服しなかったと言うのに、私の事になったとたんに、こんな事を言うようになった彼を滑稽なものでも見るように皆が笑った。それでも意見を曲げずに、私よりも青い顔をしながら必死に頼んだ、そんな彼の態度とこれ以上の殺人による悪名を轟かせたくなかったのだろう、彼らは私を癒して、彼に更なる暴行を加えその翌日、血塗れで広場に放置されていた。

 それから彼は私に頭を下げた、そんなことされても嬉しくなかったし、彼が悪いわけでもなかったのに、『お前の所為で』そんな言葉を彼に吐きかけてしまった。
 癇癪を起こした子供のようにお前の所為で娘が死んだ、お前の所為で夫が死んだ、お前が生きているから悪いんだこの化け物と、思ってもいない言葉を投げつけた。結局彼は私の声を聞いてしまった住人によって更なる暴力を受けて死に掛ける事になる。

 けれど私は救わなかった、ぼろ雑巾のように捨てられている彼を救う事さえできなかった。
 人の目が怖かった、英雄の子供が怖かった、自分がアマハルの様になるなんて考えたくもなかった。

 それに何より娘のように死ぬのが嫌だった、夫のように殺されるのは嫌だった。身勝手すぎる自分の業の深さに涙が出てくる、けれど私は人に促されるままに彼を甚振った。路上にいる彼に暴力を振るい、私物を焼き払い、アマハルのようになりたくなくて自分が私の家族を殺した人間と同じことをしていた。
 その中でも印象に残っているのが、もう彼と断絶する事になった、彼の胸の傷を作る事になった騒動。どれだけの暴力を振るわれても私の前では、何の抵抗もしない彼は居いつの間にか貴族の不平不満の発散する為のはけ口になっていた。

 だからこの国の住人は私を連れたって彼に暴力を振るい続けた。
 私が居ない時に彼らは手痛い反撃を受けたようで、盾を用意して彼に剣だけを振るう。だが彼らはそれだけじゃすまなかった、免罪符の私を盾にして攻撃するのだ。家族の敵討ちをしてやると言って強引に私を連れ出し、容赦ない虐待と変わらないその暴行を当たり前のように行なっていた。
 それはもう私の敵討ちなんか考えていなかったと思う。そんな人の有様に怯える事しかできない私と、どれだけ暴力を振るわれても謝罪の声しか紡がない彼の姿ははたから見ればどれほどいやらしく見えるのだろう。

 どうあっても私の謝罪以外を口から出す事はない彼は、彼らに凄まじい不快感を与えたのだろう。
 それとも彼を傷つけることの大義名分を掲げようとでも思ったのだろうか、彼らの口が引きつるように笑った姿を見て嫌に体を私は震わせた。それまでの暴力の所為で立つ事すら間々ならない彼を強引に持ち上げると、彼らは私に復讐をしてやれという。
 震えた、体中の空気を吐き出すほど息を吐いて、言葉の意味を理解できずに耳を塞ぎたくなった。

 けれど暴力に酔った彼らに私は抵抗できない。アマハルの様にだけはなりたくなかった、目の前にいる彼は血塗れで目もうつろだと言うのに人格の壊れた悪魔のようにごめんなさいと、口を動かすだけだった。そんな姿にだけはなりたくなくて、震えながら割ったビンで彼の胸を突き刺す、私の力では致命傷にならなかったけれど、肉が抉れて彼は激しく呻いた。
 浮かされた熱が冷めるようだった、胸から大量の血を流し酷い声を上げて謝罪さえできなくなった彼の姿に、私を含めた全ての人間は棒立ちするしかなかった。

 ただそこで死ぬかもしれない彼を救うか救わないかで必死に悩む。
 けれどそこにいる人間は私を含めて臆病だった、自分たちが人を殺すことに耐え切れなくて倫理使いの元に彼を運んでいく。多分その時、彼の様子に気付いたのは私だけだろう。実は喋れないくせに彼は謝罪の言葉をはいていてそれ更に彼の体の様態を悪化させていた事なんて。
 私はあまりに自分が汚らわしく感じた、彼があまりに綺麗に感じてしまった。本来の彼を知っている、笑顔が耐えない実直な青年だ、けれど完全に変わってしまったアマハルと言う人間はあの日を境に私に対する謝罪しか出来ない木偶に変わった。

 本来この国を逃げるだけでいい彼が、この国に居座るのは私のためだ。貴族や英雄の息子であるマイゼミから私を守る為に自分を生贄にしている、学園から帰るたびに体を引き吊りながら歩いていることも知っている。そんな彼に私がしている事はなんだろと自問してみても変わらない、汚らわしいのはきっと私だ、彼は何にも悪くない。けれどどうあっても彼は救われない。
 だって私は彼を助けるより自分が救われたい、あんな風に身を粉にして自分を犠牲にして生きるなんて真っ平だ。

 ああなるのは恐ろしい、アマハルみたいに生きていくなんて私には怖くて出来ない。
 だから私は汚らわしい自分を知っている、けれどあんな風になりたくない。殴られるなんて嫌だ、毎日毎日罵声を浴びせられて生きるなんて嫌だ、だからそれでも私はアマハルを犠牲にする。
 だって彼もそれを望んでるんだからいいじゃないかと、そんな風に言い訳しながら彼を嬲り者にする日々を送っていた。

 そんなある時の話、いきなり学院の職員が私に金貨二十枚と言う大金を渡してきた。
 理由を聞けば、とうとうアマハルが退学になるという。そのとき私に去来した感情は、彼のことなんかじゃなくて貴族たちの発散に使われるんじゃないかと言う恐怖だけだった。けれど考えれば杞憂だったことを覚えている、だって貴族たちが私の顔を覚えているはずがない。
 私の名前だってきっと彼らは忘れている。そんな人間をアマハルの変わりにするなんて発想、彼らには浮かばないだろう。どれでもいいなら、どうでもいいに決まっている。けれど私は忙しい店を三日ほど休んで怯えていた。

 そして昔のことを思い出していたように思う。
 まだ私と娘と夫とアマハルが居た頃、本当に幸せだった。真面目な彼に娘をやって彼を本当の息子にしたいと考えていたことだってある、近所にも評判が良かった彼は誰もが嫌がるような仕事も率先してやってくれた。
 毎日誰よりも早く起きて、酒場や店の周りの掃除をして、休みの日は私達が楽を出来るようにと色々な器具を作ってくれたり、マッサージをしてくれていた。学院で字が読めない彼を私達がスパルタのように教えてあげて、それでよく娘と一緒に過ごさせるようにしていた。それが私と夫の小さな悪巧み、娘も満更じゃないようで彼との時間を楽しんでいた。

 傷持ちだって関係ない、アマハルは本当に好青年で、誰よりも私たちの事を考えて生きていてくれたと思う。

 結局どちらもが裏切ってしまったのだろうけれど、あの頃に戻りたいと今でも思う。いつものようにそんなことばかり願っている、アマハルが私を刺した時から。そんな私に絶望的なまでに尽くしていてくれた彼が変貌したのは、その金貨をもらってから半年程したときだった。あの時貴族街からの一番大きな屋敷から火の手が上がった、最初それがなんなのかわからなかったけれど、凄まじい速度で燃え上がり石で作られたはずの建物が崩れ落ちていく様は、どうしてもただの火ではない事だけは分かった。

 兵士達に男が掻き集められ消火活動に行く間、炊き出しなどの準備をするべく私は他の女と共に駆けていた。そんな時だ、アマハルを見つけたのは、最初見たとき誰か分らなかった。呆けている表情の中に、震えるような何かの熱を感じた私は、声をかけることすら躊躇うほどだった。あれほど私に謝罪していた彼の姿は、もうすでに無くなっていた、けれど前よりどこか危うく感じてしまう揺らぎがあったように思える。

「アマハル」

 最初に話しかけたのは私だった。
 私を虚ろに見ていた表情は一瞬で消え去り、半年と言う時間を過ごした私ですら見たことの無い表情を口元に作り上げていた。この時に一人の人間が壊れたことを教えられた、前と違う表情で何もかもがおかしくなった彼は昔のような声で話しかける。

「ルッコラさん……」

 どこか気弱に聞こえるはずの声色が、あの時に限っては恐怖しか感じさせない。
 怖かった、私がこんな人間を作り出したようで恐ろしくてならなかった。ただそれでも私は甘く見ていたのかもしれない、きっと自分の勘違いと納得させたかった。けれどそれはあまりにも今考えれば愚かな行為だ。
 もしかするとあの時、本当はあの病的な眼差しを見て怯えていたのかもしれない。

 下らない会話の応酬、結局私は壊れた彼に突き刺され生死の境をさまようことになる。けれどこれは私の罪に他ならなかった、けれど死ぬ恐怖に耐えられなくて必死に助けを願った。救ってくれるはずはない、だって私は彼に同じ事をしてきた人間だ、ただその熱さと冷たさの入り混じった激しい衝動に、気が狂いそうになりながらアマハルを見ていた。涙を流している彼の姿が視界に入る、ここまでした私を刺してなお罪悪感を感じる。

 まだ私をどこかで守ろうとしていたのかもしれない。これから先のことを考えると、あの時私の息の根を止めなかったのはきっと彼の最後の慈悲だったのかもしれない。
 ただそれからの彼を思い出すと、自分の所為で彼があんな風になった気がして怖かった。目先の恐怖に怯えて、信じるべきものを裏切った私には、更なる絶望が作り上げられていた。
 これが私の罪の具現であるとするなら、自分はどれほど業が深いのだろう。

 けれど彼は帰ってきた、罪人としてこの国へ。
 だというのにどこまで体を蹂躙されても、なにをされても彼の思いは変わることすらなかった。復讐だけじゃない、彼はこれだけのことをされて続けていた、つまりこれが私の罪だ。どこまで言っても逃れることの出来ない、私が全てを放置した結果だ。
 アマハルをこんな風にしたものきっと私が、見てみぬ振りをして放置し続けた結果。このまま海晴は殺される、けれどここに来ても私は救うという発想すら浮ばなかった。もう完全に変わり果てた彼の姿を自分の目に晒すのも苦痛に思えた。

 汚らわしい自分の全ての結果を見て、死にたくなった。
 腐っていく体に苦悶の声を上げる、蛆の沸く手足に悲鳴を響かせる、それでも諦めないその姿はもう救われる事の無い神への殉教者のように思えた。だが彼は神さえも侮辱し救ってくれる人間にさえも牙を立てる獣と変わらない。
 そして救ってくれるはずの人間さえ、殺人に駆り立てるほどの何かを保有し。絶望的な戦力差を相手にする。

 そのときのアマハルの言葉を私は生涯忘れないだろう。

「ルッコラさん達に行く必要はあったか」

 その一言で私は立つ事さえできなくなった。どこまで言っても彼は何も変わっていなかった。アマハルはどこまでも私たちの事を考えていた、彼の今の行動はどう塗り固められても私の代わりの復讐と殆ど変わらない。娘を殺した身分や英雄というなの制度に対してどこまでも反抗している。
 これがあるから自分の全てがおかしくなったと、結局彼は根本は変わらなくて手段が変わっただけ。どこまでも自分を認めて欲しくて、それを唯一認めた過去をどうしても手放せない。

 きっと彼の根本的な目的は孤独が怖くて、誰かに認めて欲しいだけだ。

 だからこそ私は汚らわしい。より汚く見えてしまう、娘のことなんて考えていなかった、ただ自分が娘のようになるのが怖かっただけ。
 復讐さえ考えることなく屈服した私の肩代わりをしている。全部彼に肩代わりさせて自分だけ楽をしようとしていた、だって私にはそんな決意も力もなかったから。

 そして聖女と彼は戦う、けれど絶対に勝てるはずが無い。どうあっても彼は負けてしまうだろうと思った。
 それだけの力の差があったはずなのだ。

 だが彼はそれさえ踏破してしまう、死ぬと思っていた私の予想を覆しただけじゃない。もう止まることの無い彼の証明が出来てしまった、全部が遅くなってしまった過去の話だけれど、もう手さえ届かないところに彼はいる。百万殺しと呼ばれるまでに悪名を轟かせたアマハルは、負けるにしても負けないにしてもこの国に尋常じゃない被害を与えるのだろう。 
 けれど逃げ出そうにも賢者と言う希望があって、勇者が召喚される奇跡が証明されたこの国で、逃げようなんて発想をするものは居なかった。

 今にも始まろうとする勇者召還の儀、その希望が彼らの自信に繋がっていた。
 かつての部族戦争でさえ勇者一人の力を彼らは見ている。部族連合の王だけじゃない、軍どころか地形さえもなぎ払う圧倒的な力を私達は目にしてしまっていた。あれの戦争の終結から約五年では、勇者の神話を信じている人間も多くても仕方ない。
 だってあれは私達にとっては希望の光だった。彼がいれば負けることなんて無いと思うほど輝いて見えたのだ。

 勇者の敵として認められるほどいつの間にか、アマハルと言う人間の危険性は上がっていたのだ。
 彼は魔力も持たない、私達よりも貧弱な存在。けれどここまで彼は歩いてきてしまった、どうするのだろう本当に、認めて欲しいだけの彼が何で認められないような行為ばっかりするのか私には全く分らない。
 だがきっと彼も何かしらの願いがあるのだろう、だからここまで来たのだ。

 敵は英雄である賢者と勇者、本当に可哀想な子だ。どうあっても勝てるはずが無い、聖女と彼らは格も全てが違うのに不気味なほどに静まった彼の行動。その音もないただ一時の静寂、だがそれはきっと国を揺るがす変異になるのだろう。
 そんな事は庶民である私でも分る。唯一つだけ絶対的な差を覆してきた彼だからこそ、もしかしてと思う。彼はきっとなにかをする、ただの人間がきっと英雄の首に噛み付くような行為をすると思う。

 けれど私はそんな彼の姿を見ることは出来ない。
 怪我が治った私はいつものように酒場の運営をしていた。女一人で仕事をするのはかなり骨の折れる事だったけど私にはこれ以外の生き方を知らない。アマハルの事も遠目からしか見ることはしなかった。
 そんな折り、王城から一つの号外が訪れたのだ。救世の機動が確認された、これにより陰鬱だった国の空気は一瞬にして晴れやかになっていく。けれど救世にはまだ一人絶対の犠牲が必要だ、勇者の存在の代わりをする為の存在犠牲。

 この日めでたく私は、勇者の生贄と変わります。
 だから私には一つの後悔があります、たった一言アマハルにごめんなさいと今までありがとうと、それだけは伝えたかったのに私にはそれさえ伝える機会はもう無い。兵士達は私があの百万殺しと生活していた事があるという情報を仕入れているのか、いきなり組み伏し槍で私を打ち据える。激しい衝撃にアマハルの時のような、痛みも感じない代物ではなく、あまりの痛みにその場で胃の中身を吐き散らかした。
 視界を全て白色が浸食して、目を開けているはずなのに何も見えない。それからは痛覚も飛んだように、漠然とした衝撃が私を苛んだ。

 それから少しの時間も耐え切れずに私は意識を失ったところまで覚えている。

***

 彼女が目を覚ました時、目の前にいたのは賢者だった。
 英雄と真向かいに目を合わせるなど彼女の人生においても初めての事だった。自分よりも十ほど違うだけでこれほどの美貌の差があるのかと思うと、女としては少しばかり負けた気にもなるが、これが娘と夫の仇の親だ。

「はじめまして、ルッコラ=ルッコランさんですね。兵の無礼は申し訳ありません、あなたが百万殺しと関連があるのではないかと怯えたもので、きちんと処分しておきましたからお怒りは納めていただきたい」
「いいよ、どうせ私は死んでるのと変わらないんだ」
「では、あなたには勇者召喚の代体者となることが決まりました。これから一ヵ月後貴方を代体とした召喚の儀式を行ないます」

 それがルッコラの運命だった。酷い目にあいたくないと願った女はこうやって後悔を抱いたまま死んでいく。
 これは当然海晴に対する皮肉でもある、何よりこれほど都合のいい人間はいなかった。賢者はアマハルの代わりといって直ぐに浮かんだのがルッコラだ、彼の経歴を調べさせた時に一緒に暮らしていた人物は彼だけだ。
 他の人物は死んでいるというのに、ルッコラだけは死んでいない。実際には殺されかけているのだが、アマハルが人を殺さなかったことの方が珍しい。殆どの場合息の根を確実に止める戦い方をしているのが、百万殺しといわれるまでになった海晴である。

 だからこそ彼女は気まぐれにしろ、なんにしろ生かされた女を使う。きっとこの女には海晴が求めた何かがあるのだと、だからこそルッコラの命を奪うことこそが、自分を孤独に落とし込んだ男に対する復讐になる。
 たとえそれが自分の息子の自業自得だったとしても、孤独の恐怖を刻まれてしまった自分に対する。彼女なりの報復の仕方の一つ、ただでは海晴はどうせ殺されない。それはただ怒り狂った住人に殺すなと言う命令を下して、あとは放置した賢者の気質からも見て取れる。

「そうかい、いい加減私も年貢の納め時って奴だろうね」
「申し訳ないことですが、百万殺しの関係である以上、今回の勇者を呼ぶ代価としては妥当すぎるのです」
「いいよ別に、あんたが私の命なんかどうでもいいことぐらい。海晴と私が救われなかった時点で理解してるさ」

 そこに居た熟女は達観した声をもらした。
 残念な事に彼女にはそれが理解できない、人の心を明け透けにする力はあっても機微を読み取る事は出来ない。本質的に勇者いがいどうでもいいと思っている証明であろうが、それを簡単に言い当てた彼女に賢者は少々驚き表情を崩した。

「驚くこたないよ。だってじゃなければ、今まで見たいな事を普通に見ていればそう思うさ」
「そうですか、全員騙せているわけではなかったと。それもあのアマハルとか言う男が、違う価値観を貴女に植え付けつつあるからでしょうが、特に計画に誤差が出るものではないのですが」

 困った人ですと言葉を漏らす。
 あらゆる意味で彼女と価値観を相違する海晴は、同類でありながらもっとも憎むべき存在同士だ。だからだろうかルッコラは、賢者を見ていて海晴を思い出す。どこか脆く写ると言うのに、しっかりと自分の足で立って悪夢を実行する辺りはもうそっくりでならないだろう。

「そうだ、あんたに言いたい事があったんだよ。どうせ死ぬんだし言いたい事を言わせてもらうよ」
「なんですか、別に聞いてあげない事もないですよ」

 そう言うと彼女は薄く笑みを浮かべた、口の置くから蛇の声デモするような声が響く。
 これはきっと彼女が死を理解したからこその言葉だろう。もう全てを諦めたからこそたまった膿が吐き出される。

「あんたの息子はゴミだったよ、私達のすべてを台無しにした。それさえなければみんな幸せに生きていけたんだよ、あんたが子供を放置さえしなければ、返してくれよアマハルを私の息子になるはずだったアマハルを、あんたが無能だったから、子供が生まれても勇者しか見てなかったから子供を何一つ見ようとしなかったから。
 お前の欺瞞が息子を殺させたくせに、お前の傲慢が私達を滅ぼそうとしたくせに、まるで被害者面しやがって、あんたの所為で、あんたがマイゼミなんて人間のかすを作り出した所為で、私達は今の状況になったんだ。幸せだったあの頃を全部失わせたんだ、返せよ、私の家族を帰せこの卑怯者、絶対にあんたは勇者となんか会えるかい。人殺しで血に塗れた手で、自慢げに貴女とあいたかったとでも言うのかい百万殺し」

 止まらない、賢者さえもルッコラの今までのたまりに溜まった膿の前には押し黙るしかなかった。
 何しろ彼女は息子の所業を知ってしまった。海晴の経歴を調べる以上それは絶対に残るものだ、息子は市民の娘を陵辱しその家族を破滅させた。そして海晴と言う人間を半年以上も拷問にかけた。
 ちょっと調べれば分る、マイゼミが殺される前に行なっていた所業との符合。

「絶対、あんたはその血塗れの手で勇者に会うんだ、手に触れられるかい、息子さえまともに育てずにクズを作り上げて、挙句に殺させて、どうやって、どんなツラで淑女を気取るつもりだい。私はあんたと勇者が出会ってもきっと何もかも崩壊すると思うよ、あんたはこの状況を作り上げた一番の中心なんだよ。本来の百万殺しの称号はあんたさ、血塗れの手で勇者に抱きしめてもらえるかどうか考えるんだね人でなしめ、私の同じ人間の無能の親め」

 だからこそ彼女は口を開くことも出来なかった。 
 その口元にはどうしようもない怒りが刻まれていたが、ルッコラだってそれは同じだ。自分も親としては賢者と変わらない、娘が死んでも復讐どころか海晴に当たるだけ、そして息子のように思っていた海晴さえ彼女は痛めつけて裏切った。
 だけどたった一つだけ違うのは、まだ心のどこかでお互いがお互いを思いやっていることぐらいだろう。

 ルッコラの憎しみはそのまま吐き出され、賢者の平手打ちで強引に口を閉ざされた。
 言い返すことも出来ない賢者は口を開くことも儘ならないままに力を行使した。真っ赤に染まる頬を見てもルッコラは気にしたそぶりもなく罵声を浴びせる。そのたびに平手で黙らせるが、否応無しに彼女はこの土壇場で自分の罪を認識させられる。

「あは……は、いっ……て、言って、やった。絶対に勇者になんか……会え、るもんかい、正面から勇者なんて見ることだって出来ないよ」

 勇者に会いたい為に、孤独を解消する為に、何より勇者との約束を破ってしまったが故に自分は本当に勇者に会えるのかと言う疑問が浮んでしまった。
 言いたい事を言って気絶したルッコラに目もくれることなく、自分が勇者と本当に会えるのかと思って恐ろしくなってきた。だって彼のとの約束よりも、息子のことを忘れて寂しさから逃れるように仕事をしていた彼女。
 育児さえも放棄して、仕事ばかりしていた、挙句に息子をクズとしかいい様のない人間に育て、そして殺された。

 そんな人間に勇者と会う資格があるのかと自問する。

「なんで、何でこんな時に、なんでよ。なんで、私の願いが届かないの」

 怖かった孤独に、恐怖が後押しする。
 背筋が冷えたままの恐怖に彼女は涙を流した。罪悪感が押し寄せる、今まで溜まった彼女の膿が溢れる時だろう。
 自分のエゴの為に大切な親友を殺し、あまたの人間を謂れの無い罪で殺しつくした女。

 そんな人間が本当に勇者と出会う資格があるのだろうか、そんなどうしようもない恐怖に彼女は身を震わせる。本当にそれはあまりに無残な話だ、勇者に会いたくて孤独が怖くて、必死だった人間が絶望を突きつけられるのだ。簡単に認めることが出来るはずもない、だがそれは心情的な問題だろう、彼女が願えが勇者はきっと来るはずだ。だって彼女の世界を守る為に現れる存在なのだから。

 だからこそなのだろう、現実を突きつけられた賢者は怯えた。
 ただの憎しみを発しただけの暴言、はっきり言って重さも何にもない、海晴とは別方向での賢者との同類であるルッコラが吐いた。核心だけを突いた彼女の心に訴えかけるだけの言葉だった。
 
 本当はルッコラは賢者にこう頼むつもりだったのに、どうしてもいってやりたくて仕方なかった。
 自分が溜めていた、海晴にさえはくことのなかった、後悔と言う名の自分の復讐と言う行動を、死ぬ前にようやく彼女は思い出して喚き散した。

 ただ海晴に「ごめんなさい」と「今までありがとう。あんたのお陰で幸せだったよ」と言うただそれだけの言葉を頼むはずだったのに、最後まで彼女は自分勝手に復讐を遂げようとしていた。もう賢者はルッコラの言葉は聞き入れることは無いだろう、だからこそ彼女は簡単に死ぬわけにはいかなくなった。
 ただその言葉を伝えるためだけに自分は生きてやると、それをしないで二人に会うことは絶対に出来ない。そう心に誓って、たった二つの言葉に命をかけようと、誰とも違う、たった一人の理解者としての優しさを握りしめ歩き出す。

 その言葉を伝える為だけに。

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