十二章 願い賜り願い請い、願い承る者はなし


 長かった三ヶ月は終わりを迎えようとしていた。
 彼を侮辱し続けた民衆達はまるで熱気を失ったように彼に暴力を振るうことをやめていた。復讐が無意味な事をようやく理解したのだろう、そんな事をしても誰も喜ばないと言うのは事実なのだ。
 甚振っていた彼の怨嗟を聴いて怯えたものもいた、だがやがて彼が一度たりとも自分の言葉を曲げないことを気味悪がったものたちは、いつの間にかその暴力をとめていた。そして晒され続けている海晴の静けさと、民衆達の静けさが彼と言う人間の存在を忘れようとしていた。

 ただ一人だけそれを許さないものもいたが、その恐怖を彼女はひとりだけ見にしみて理解していた。
 日々を泣きはらした事もあっただろう、だからこそ彼女はこうやってもしかすると最初に、甘里海晴の危険性を理解していたのかもしれない。だからこそ次の刑罰を決める為に彼女は賢者の元に上申したのだろう。

「千人殺しのこれからの裁定はどのようになるのでしょうか」
「聖女からとは珍しいですね。ですがもう処刑以外ないでしょう、悔い改める意思さえあれば、牢での監禁もありえたのですが、彼はそれすらしなかったですから」

 野ざらしの後処刑を実行させると、既に海晴の命は風前の灯だったのだろう。
 だからこそ彼女は頭を下げて賢者に願いを請う。

「でしたらその役目私に果たさせてはくれませんか」
「何を馬鹿なことを言っているんです。あなたは賢者候補でしょう、私のように血にぬれた行為をさせるわけにはいけません」

 賢者は悪魔を殺すという題目の元に戦場に立ったのだ。それさえ当時の宗教家達からはいい顔をされた事は無い。
 酷いものは異常者呼ばわりだ。聖女が陣頭に立って処刑を行えば、それだけで聖女が血に濡れ穢れるのだ。そんな事をすれば教会の権威自体が落ちる可能性もある、そんな事を教皇である彼女が許すはずも無い。

「お願いです、私の神への信仰の確立のためにも」
「駄目です、象徴になるべき人間を汚すようなまねができるわけが無いでしょう。貴女がどれだけ悪魔狩りに意識を燃やしているかはわかりました、ですがそれだけは許しません」
「それでもです。私はあの悪魔が生きている限り、神の信仰さえ疑います。いつか私がこの教義を破ってしまいそうで恐ろしいのです」

 この時嫌でも悪寒が走ったのを賢者は理解する。喰らいやがった、あの息子の敵は聖女の心の柱を喰らい尽くしやがった。
 これは甘く見すぎた彼女の失態だろう、今までのように神に盲目な少女が神に疑問を持った。象徴になるべき道具がそんな思考をする、折角盲目に仕上げた道具が使い物にならなくなった。

 やられた、手足を封じるだけじゃどうしようもなかったのだあれは、口さえ開かせてはいけなく類の生物だった。
 息子を殺してこれからの計画にまで邪魔が入ると彼女は思わなかったのだろう。だがまだ彼女は冷静でいられた、内にこもるいい様もない怒りをどうにか押しとどめる。使い道のあった道具は台無しにされたが、どうせあれは死ぬのだ何も出来ずにくたばるだけだ。

「貴方の言っている事は支離滅裂です。人の言葉如きでなぜ、神の信仰が崩れるのですか」

 自分は一切の神を信じていないくせによく言える台詞だ。彼女はまだ教会が崩れてもらっては困るのだ、発言力の低下はそれだけ教会が弱体化したことを証明し、過去に彼女の行なった虐殺が否定されてしまう恐れさえある。
 それが彼女の死後ならともかく、生きているときにされては困るのだ。

 まだ彼女にはやらなくてはいけない事がある。その為にも教会の権力はまだ必要なのだ。
 それに息子殺しはまだ生きておいてもらわなければ困る。使い勝手のいい道具はもう少しばかり壊れてもらっては困る。

「それに人の命を奪うことを宣言するような人に、倫理法がつかえていいはずがありません。それに貴女には残念ですが三ヵ月たった後の処刑は形だけです、教会が犯罪者だからと言って殺害する事は出来ません」

 その言葉を聴くや、一気に彼女の顔は青ざめる。
 あれがまだ生きているという事実が彼女には恐ろしい、重なり合わない震えが彼女を縛りつくしていた。

「千人以上の虐殺者で、傷持ちである彼が殺害されない理由は」
「根源王法 救済 を起動させるためです。たった一人によって、この国は基盤自体が揺らいでいます。何より救済によって、今まで傷ついた人々の心を癒さなくてはなりません、王法ほどの魔導機があれば死者蘇生さえ可能にするでしょう」

 倫理法のことは詳しく知っていても聖女は魔導機が実際どういう代物であるか知っているわけではない。
 生活に根付いてはいても、四法でさえ現所有者や使用者が資格によって決められているのだ。その秘密はある程度資格のあるものしか教えられることは無い。ましてや魔導機はこの世界の最高のテクノロジーを使って作られるものだ。そして王法や四法にいたっては発掘するものであり神からの遺物とさえ言われている。
 それゆえに神の殉教者である彼女は魔導機は万能なものだと思っていた。

 そして何より属性が別れる前の魔導機であるのなら、根源の第一派生である王法であるなら死者蘇生ぐらい出来るのではないかと言う認識があるのは当然の話である。目の前の賢者はその魔力と魔導機を使い瞬時に、三万人以上いる軍隊を回復させたことだってあるのだ。王法であればそれぐらい出来てもおかしく無いと一般の人には本当に思われている。
 何より願ったものを救う魔導機である救世であれば可能であろう。

「しかし王法の機動は認定された所有者を召喚する必要があります。その為の代償は他の世界から呼び込まなくてはならないための人的代償が必要のはずでは」
「だからこそ彼を使う。これは教王会議によって既に決まった事です、彼はその命を持って救世主を呼び出す犠牲となってもらいます」

 たしかにそれで救われるのであればいいだろう。罪人一つの命で罪人が殺した全ての人間がよみがえるのだ。
 そうすれば賢者だってマイゼミの蘇生に喜びを抱けるだろう。また人々の平穏が導かれるのだろう、だがそれならあえて賢者が魔導王を殺す必要は無い。きっとまだ裏があるに決まっているが、それをここで論ずる必要はひとつとしてないだろう。

 結局はあれが死ぬ事には変わりないのだ。

「ならせめて、せめて、その儀式の執行を私にまかしてもらうことは出来ないんですか」
「無理に決まっているでしょう。王法の機動にはそれこそ細心の注意を払わなくてはいけないの、神の信仰さえあやふやな聖女である貴女に任せられる仕事じゃないんですよ」

 正論であるのに、賢者の言っている言葉は全て嘘っぱちだ。
 王法にそんな力は無い。救世とはその名の通りだ、世を救うだけだ。その単位はあくまで救世を願った群体の全滅を防ぐ事に過ぎない、その為であればどの王法よりも優れた力を発揮するだろうが、その中に生命の蘇生などと言う機能は一切無い。

 それが出来るなら、あの時剣人が王法大地の使い手と相打ちになっても王法がそれを生かしただろう。
 しかしそんな事はおきなかった、どれだけ当時の勇者やその仲間が祈っても何一つ動く事はなかった。つまり救世に命の蘇生などと言うそんな能力は埋め込まれていないのだ。それが出来るのは海か時間の王法だけだろう最もどちらも見つかっていないのだ、そもそもどんな名前の魔導機かさえ分からないのだ。

 知っているくせに、彼女はそんな当たり前の嘘で全てをだました。

「賢者様お願いします。このままでは私はおかしくなってしまいそうなんです」
「殺人中毒にでもなったんですか、たかが言葉でそこまで道を踏み外すとはどういうことです」
「彼が怖いんです、神を裏切ることが出来る人は恐ろしい。私の信じているもの全てが彼には価値の無いものなんです、そして何より神を欺瞞と言い張って善も悪も認めないあるのは現実だけだと言い張る人なんです」

 神も恐れぬとはこの事だ。現代の日本人の思考に神なんて物を求める思考をする人間はあまりいるわけではない。
 信じてもいないくせに頭を下げる程度の力しかない。そんな人間の常識を押し込められた彼女は、支える者の無い恐怖に打ち震え、自分がどれだけ神に依存していたか海晴に突きつけられ、その土台のあやふやさを認識させられたのだ。

 海晴の実体験における明確の証拠があったが故の説得力もあるだろう。そしてそのどこまでも冷静に自分の状態を告げることの出来た異常性が、彼女の心に深いトラウマを植え付け、殺害の実行さえも決断させたのだ。

「貴方の言葉はわかりましたが、立ち会う事は許してもそれ以上は絶対に許しません。これはあなたが思っているような個人的感情でするべき事ではないのです」

 ただ個人的感情から民族虐殺を行なった女が言う言葉であった。
 その目は真剣で英雄と言うものはかくも鮮烈なものである証明を聖女に突きつける。これ以上の我侭は許さない事を、今まで積み上げてきた力のよって発揮し声を張り上げた。
 二の句を告がせないように響いた声があっても、それでも言葉をつなげようとする彼女を一喝する。 

「わかったら出て行きなさい。あなたがなにを考えようと所詮は無駄なことです、彼は魔導機の犠牲になってもらわなくてはなりません」

 最後には怒号を吐いて彼女を退席させる。
 言葉自体は丁寧なものであったが、これ以上話を聞くつもりが無いのは明確だった。人間として熟練たるものでもない少女が、その賢者の迫力に気圧されだしたい言葉も満足に出せなくなった。
 後は容易く迫力に推されながら彼女は退席するしかなかった。これで彼女も静かになるだろう、賢者はそう甘く見ていた。しかしここで甘く見てしまったのは、きっとこの聖女がどれほど追い詰められていたか誰も知らなかったからだろう。

「わかりました」

 その言葉の裏に潜む狂気に誰一人今は気付くことはないのだ。
 ただの英雄願望が暴走した結果としか賢者は思っていない。あれほど甘い聖女が人殺しを本当に考えるなど、そう言う思考を作り上げてきた彼女だからこそ考えられなかったのだ。

「あの子も本当に困った娘になってしまって、道具が自意識を持つのは本当に困る話ね。邪魔になってきたし彼女も生贄になってもらったほうがいいかもしれません」 

 誰もいなくなった部屋で彼女は笑う。
 丁度いい生贄がまた出来た。孤独が溢れた彼女はもうどうしようもないところまで追い詰められているのだろう。恥も外聞も最早無い、いやそれはあの日虐殺を決定した時から決まっていた。
 一度種の絶滅を防いだ魔導機は休眠する。だからこそ不用意につかえる代物ではない、通常は勇者の代替物を作り出す生贄が一人いればいいだけだが、魔導機はそうは行かない。限定条件化だけでも最強の力を発揮するその代物は、蓄積をしていく必要がある。

「丁度いいかもしれない、まだ力が足りなさ過ぎる。彼のお陰で大分溜まったんだけど、けどそれでも足りないもう少し殉教者が出てくれば良いかもしれないんでしょうけど、けれどありがたい限りね。息子を殺された代償に、もっと大切な彼が帰ってくるんだから、その切欠も決断もその道具でさえあれのお陰で全部用意できたんだから」

 その蓄積とは時代を経て魔導機に食われることになる人々の魔力だ。
 十や二十の人の生涯の魔力なんかじゃたりない。もっと大量の命を食わなくてはならない、彼女が傷持ち狩りを決めたのはそう言う理由があるのだ。孤独に耐え切れなかった彼女が行なったのは、千人殺しどころか百万殺しだ。それでも神の建前と英雄の称号が彼女を守り、この国の全ての人間に事実を認定させてしまったのだ。

 しかしこれを知っているのは彼女だけだ。
 あの日に決まってしまった。本当にそれは偶然だった、息子が殺された日に彼女がいた場所こそが王法の儀式場であり安置所だった。これも偶然だが息子が殺され瞬時に百人近くの人間が死んだ時に、魔導機は始めて起動した。淡くだが確実と、千人殺しとそれを繋げないと言う事がそもそも難しい話ぐらいの偶然だった。

 孤独を繋げた女は、それから抜け出すために外道に落ちた。
 それからは分かりやすいものだろう。傷持ちたちは容赦なく虐殺され

「また誰かが死ぬ要因を作ってくれないのでしょうか。千人殺しは謝らなかったんだからそれぐらいはしてくれてもいいと思いますけど、取り敢えず聖女一人分の魔力は増えるようだからいいんですが、つかえない道具は世界に還元って感じでしょうか」

 今までが美味く行き過ぎていることに何の疑問も抱かない賢者は、どうやって聖女を殺すか考える。
 そしてやっぱり浮ぶのは、道具を台無しにした海晴のことだ。あれなら彼女を殺しても何の問題もない、そう仕向けることぐらいは聖女じゃないもう一つの道具が勝手にしてくれると思っているのだろう。

 だがその道具は、本来彼女の天敵に当たる人間であることをまだ気付いても居ない。

***

 賢者の下から退室した彼女は、より一層の恐怖に包まれていた。
 自分の手で殺さなければ安心もできない、息の根を己の手で止めて初めて安心できると言う事を彼女は確信していた。それ以外で彼女のが心から落ち着くことなどありえなかったのだ。

 賢者がだめと言うなら諦めるしかない。けれどそんなこと出来るはずも無い。
 殺せばいいだけなのだ、いま賢者の言葉を聴いていればいつか自分は発狂する。震える手がその確信を否応なしに教えてくれる。強迫観念のようなものが彼女を縛りつける、ただ彼を殺せればいいとそのためなら手段を選んでいられないことを理解しなくてはいけなかった。

「破門されても彼を殺さなくてはきっと私がおかしくなる」

 既にそれは聖女の目ではなくなっていた。どこかで見たことがあるような瞳だ、あらゆるものがねじくれ変貌してしまった女。
 賢者と同じ瞳に変わりなかった。殺人などしなくてもただの言葉で人は、変われるという事実を悪い方向で証明してしまっているが、恐慌にさえ陥りかけている彼女は最早言葉程度では止まらないのだろう。

 それでも必死に彼女は耐えた。頭がおかしくなるような恐怖にも何日も、精神にダメージを来たせば体にも同じように偏重が起きる。
 胃の痛みが止まらず吐き気も止まらない。それは精神の偏重であり、倫理法をもってしても治すことの出来ない病気なのだ。心が壊れそうになっているのだろう、日増しに彼女の体調は悪化していった。

 賢者も本来は殺害する予定だったが、勝手に自滅するのを待ったほうがあとくされが無いと思ったのだろう。そのまま衰弱死するのを待つことにしていた。
 本当にそれほどまでに彼女の調子は悪かったのだ。どんな倫理法を使っても治らない体は衰弱は、更に精神まで病ませるのにそれほど時間を要すことはなかった。

「殺さないと、私が殺さないと」

 それが彼女の口癖だ。看病などはするものは居ないからこそ、聖女の汚名がなくなることがなかったのは確実だ。
 ベッドに寝たまま動けない彼女は、眠れもせずに苦しんでいた。今までの支えを必死に思い出そうとするたびに、頭が痛くなって体がおかしくなる。時計の針の音さえ海晴の言葉に思えてしまう。
 一度抱いた神の疑念が、あらゆる方向から彼女を追い立てているのだ。

 神とは都合のいい道具ではないだろうか、人間が逃げる為に作り出したものではないだろうか、彼女の生涯をかけた信仰はそんなものに捧げられていたとそんな代物で世界が出来ている事が彼女は恐ろしいのだ。
 そんなものではない事実が彼女は欲しい、そう言うもので世界が出来ていると吐く人間を止めなくてはならない。

「殺さないと」

 変わらない声が何度も響く、同じ内容の殺意がずっと続けられていた。
 一度音が全て止まる。彼女は偶然外を見たのだ、そこには高く掲げられた人の影があった。夜だと言うのに民衆が暴徒のように彼を嬲り者にしているのだろう、教会の一室からも見えるような暴力だった。
 ここ最近はなかったというのに、これも彼の次の判決が出る前の最後の暴力なのだろう。

 けれど視力を強化して彼の姿を見た彼女は怖気が走った。まだ彼はあの顔で笑っていたのだ、どれだけ暴力を振るわれてもあの男なにも変わっていなかった証明がされていた。見ることしか彼女の心の安息はなかったからだ、あれが生きていることだけじゃなく笑っている事さえおぞましいのだ。
 結論がでてた、明快な答えが出ていたのだ。あれが生きている限り彼女は狂ってしまう、ぶら提げられた生きた屍を見て彼女は理解した。

 自分の基盤を台無しにされたように、彼もまた自分の基盤がある。その土台が彼女の存在を許している事さえもう出来ない。
 神なんて最早彼女の前には思考さえなくなっていた。明快な答えがある、単純に彼女は彼を病気になるほどに憎んでいるのだ、正気をなくすほどの憎悪を彼女はようやく得たのだろうか。
 描かれた絵の名前を、憎悪に塗れた聖女とでも陳腐につけておくべきだろう。

 弱ったはずの体に否が応にも活力があふれ出す。憎しみとはそれだけで十二分な活力になってくれるのだ、海晴だってそれだけで生きている。弱った体を倫理法が癒す、精神の衰弱など憎しみの前に消え果てたのだろう。

「あんなに楽しそうに笑って、私はこんなに苦しんでいるのに化け物は」

 呟きと共に完全に彼女の全てが変わっていた。
 神と言う土台がどこにあったのかいうほど明確に彼女はその衝動に身を任せている。こんな彼女の姿をさぞ海晴は嬉しそうに見てくれるだろう、やっぱりそんなものはお前にとってどうでもいい代物だったんじゃないかと。
 賢者の静止も監視もない、その己の衝動に身を任せた彼女は海晴の元に走り出し。歪みに歪んだ表情を顔にたたえたまま、聖堂の彼女の部屋から飛び降りた。

 倫理法で強制的に身体能力でも強化したのだろう、かなり高いところから飛び降りたというのに体に多少の痺れしか彼女は感じていなかった。
 聖女なそんなアクロバティックな事をするとは誰も考えていないだろう、彼女の落ちた音が響いて衛兵が来るが、次の瞬間にはその存在ごと抹消される。倫理法の外道応用である技術を使ったのだろう。その技術さえあれば衛兵であろうと一瞬で殺害するだけの力を持った技だ。
 体が一瞬で壊死してそのまま消えうせ、一瞬の腐臭が彼女の鼻にきつく刺激した。人間だった筈の粉と寂れ果てた鉄の鎧が地面に転げ落ちた。悲鳴も響く事の無い悲惨な虐殺は、誰も知らないうちに完了されていた。

「邪魔しないで下さい、私はするべきことがあるんですから」

 意見も聞かない、そんな言葉だけで時間の無駄だと彼女は判断したのだろう。
 死体を一瞥することなく彼女は歩き出した、禁忌であった殺人さえ容易く成し遂げてしまうのだ。最早聖女などといえるわけのない代物がそこにあった。このままならきっと彼女は海晴の殺害のためだけに、民衆さえ皆殺しにしかねないのだ。
 殺すしかない、その原動力だけで彼女は必死に走り出していた。ある意味道具として生涯を終える人生からようやく外れて人として彼女も歩みだしたのかもしれない。それが良い悪いといえる訳ではないが、もしかしたらそれは不幸な話なのかもしれない。

 ゆらゆらと歩く聖女は、狂気に陥りただ一人の暴虐の限りをるつくされて笑っている男を甚振り続ける聴衆の前に立った。

「あなた達は何をしているんですか、まだ飽きないのですか。そこまで血に濡れたいなら犯罪者を目指しなさい、自分達のやっていることが彼のやっている事を理解できないのなら、私が異端認定をしてあげますよ」

 それは一族郎党皆殺しと同じ脅しだ。息を飲み込み恐怖に怯える、異端認定とはそれほど恐ろしいものなのだ。
 一人二人と逃げていく人々、槍で突き上げられてまともに呼吸さえ出来ない彼の姿はこっけいに見えた。もう脚の一本が無いことぐらいで動揺しない彼女は、海晴の顔を踏みつける。
 塵散りになった人々も彼女の行為は見えたはずだが、誰一人文句を言えるものなどはいない。

「お久しぶりです海晴さん」
「どうやらきっちり発音を覚えたようだが、この上なく不愉快だが、礼儀は果たしておこう久しぶりだな」
 
 当たり前のように憎悪を突きつける少女と、当然の権利と踏みつけられても何をされても笑って殺意を向ける男はこうやって二度目の再会をした。
 感情さえ憎しみである二人の視線は当たり前のようにベクトルが違うだけの同類である事を証明している。
 そして当たり前のように首をかしげて彼女がなにをしにきたかわかっているくせに、鼻歌でも歌うように彼女に向けて笑いかけて問う。

「一体なんのようだ。名前までキチンと発音してくれたようだが」

 彼女から聞きたかったかったから。それで満足するのかどうかは、彼しだいだろうがその態度を見る限り。
 とても嬉しそうに笑っているのだ、そりゃそうだこんな目をする人間が、神を信仰しているわけが無い。それはたとえどれだけ言葉を口にしてもかわらない、自分の土台が崩れて自分で土台を作り直したようなものだ。賢者の思い通りになるどころか、誰の思い通りにもならない人間が出来た。

 心の底から嬉しそうに笑う彼は、今までの憎悪など少しの間忘れていた。そんな足元の男を彼女は睨みつけて、魔力を使い彼の体を直す。
 それはある意味彼女の慈悲なのだろう、死ぬ前ぐらいはまともな格好をさせてあげようという。それとも確実に自分が命を奪った証明になると思ったのだろうか、多分それは聖女の心の奥底に残った最後の信仰だろう。

 だが何も彼は文句もいわず彼女の次の言葉を待っている。聖女の言葉を今か今かとそれこそ予言を聞く使途のように待ち望んでいた。

「分かっているでしょう、ここであなたを殺すためにです」

 ひとつ柱が折れた音が響く。
 神の殉教者の心さえねじ伏せた男は、凄絶な笑みを刻んでにらみつけた。憎しみで劣ると思うな、力で劣ると思うなと、それこそ世界ごと抉り取るようにその膨大な憎しみを溢れさせて笑うのだ。
 ただ彼女の足を跳ね除け立ち上がり、殆ど顔と顔がぶつかり合うような距離で、いやらしく顔をゆがめて口を開く。

「お断りだよ、俺はまだ死にたく無い」

 そんな吐かれた言葉のなんと独善的で彼らしい言葉か。 


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