十一章 苦悩など


 憎しみは終わらない。
 羅列された憎悪の螺旋が一人の人間に集約する。目の前で頭を押さえつけられ腕を鋸で切られる彼の姿、、肉がだまのようになって刃の間から零れ落ち、骨を削り殺す音が響いていた。
 鋸は彼の骨を半分ほど引き裂いたところで抜かれた。一瞬の安息だが脆くなった骨を引きちぎるように、ただ繋がっているだけの腕を踏みつけ、骨をへし折りそのままぶつぶつと形容しがたい音を立てながら腕が千切れた。
 咽喉から出される声は悲鳴とも絶叫ともつかない、細い糸が針のように伸びる音が耳にさんざめく。

 終われば荒い息を吐くが途中で止まった、体の形さえ簡単にしまってしまう彼の今の生き方。それでも正気を保ち続けるのは最早拷問かもしれない、それこそが世界の暴力なのかもしれない。けれど壊れることなく彼を見て怯える聖者に向ける視線だけは、誰よりも憎悪に満ちていた。
 そこに賢者の憎悪に圧殺される自分がありながら、そんな呪いよりも純粋なまでに海晴は、目の前の聖者が憎かった。
 善意と言う名の暴力がある、救いと言う名の圧制がある、目から血があふれ出し痛みで脳だって融けているかもしれない。人間の体は最早形を保っていないかもしれない、精神させもまた憎しみにゆだねなければ正気さえ保っていられないのだから。

 達磨になるまでそれほどの時間を要する事はなかった。
 皮膚が剥がれ、化け物に変わった彼は、彼女を見ながら痛みに耐えることもなく引きつった笑いを作り上げた。

 笑ってしまえばいい、これが貴様の言う善性ばかりが作り上げた人間だと。こんな事をする人間がお前の信じた人間だと突きつける、その場で嘔吐しそれでも彼女は目をそらせずにいた。
 海晴は彼女の信じていたものを叩き壊す。教会の教義であった人間こそは善性のみで生きることの出来る人間だと、人に輝きがあればそれは全て認めることの出来るものとなる、罪を憎め人を愛せ、だがその全てを否定するように目の前の聖女の前で起こされる人間解体ショーは、その全ての教義を奈落に落とすものであった。彼はそれを知っていて行なった、目の前にいる女の全てを認め無いと言う意思表示を見せる為に。

 魚眼のように生きる意思さえ見せない瞳が、彼女に視線を合わせ続ける。
 何度も言い続ける。これが人間だと、弱者がいれば容赦なく蹂躙し、大義名分があれば畜生にも劣る行為を平然と実行できる存在、彼女の聞いていた教えを破滅させる地獄だった。けれど視線がそらせない、現実と言う容赦の無い壁は、彼女の今までの人生を台無しにするものであった。
 海晴の体から一つ何かが欠けるたび、その音が現実と認識させる。そして今目の前で彼を蹂躙するもの全てが、彼女にとっては忌諱すべき化け物のように見えるのだ。

 胃から吐き出すもの全てがなくなる頃、海晴は死んでいないだけだった。
 達磨になってもまだ彼の体の壊すところなんていくらでもある、皮を剥がれ風に晒されるだけでそれは拷問と何も変わらない。死んでい無いと言う事実だけあったが、断続的に響く呼吸より激しい心音が、彼の生存を伝えていた。最もこのまま放置していれば失血死しかねない。

 だが他の倫理使いが彼の体を中途半端に蘇生させる。まだ見習いのような少年の術だ、どうにか失血死をさせないようにするのが精一杯だろう。まだ人の皮かぶる事すら許されない。人としてすら認められることが無いと言うことだろうか。
 人の狂気を目の当たりにして第三者がなにをするか、ただ客観的に見てそれは容赦の無い暴力だった。しかも人にすら劣る畜生の様、だがそれが中心の人物であれば話は違うのだ。海晴はもしかしたら殺される事すら許されない人間かもしれない、ここまで人間として滅ぼされたのは、自身である事は言い逃れできない事実なのだ。それを理解しているし、否定する事も無いだろう。

 それを理解してまだ殺そうと考えているだけだ。

 死ななければまだ可能性はある、殺されなければ殺せる可能性がある。
 その一筋の線のみに全てを彼は賭けていた、救いの手は来ないだろう。その自信だけはある、ルッスでさえ信用には値しない信じれるものなど自分の力のみだ。必死に絶えるその怒り墓陀羅尼偏重でも来たしたように、目は真っ赤に染まる流した血が浸食した結果だろうか。
 だがもしかすると彼自身の狂気の産物かもしれない、赤はただ本能的に嫌われる色だ、黒とは別の意味でこの世界における呪いの象徴であり死肉の根源だ。そんなものを目にまで宿す男は、人としてみてもらう事はこれから先も無いかもしれない。

 このままでも一日二日は生きていけるだろう。だが目の前の聖女は、傷だらけの咎人を放置する事などできなかった。

 施される慈悲に海晴は怒りしか覚えない。与えられる優しさが鋭い剣になる事だってあるのだ、彼女は海晴にまた剣を突き刺した。しかし心を抉り海晴の存在をねじ伏せる呪いは、彼の体を癒す事しかしなかった。
 しかしいくら蘇生されても直ぐには動けるような事にはならない。慈悲の微笑みにさえ彼は殺意しか抱けない、彼にとっては何もかも遅いのだ。ルッコラとの最後の出会い、あの時に全てが終わっている。

「で、何がしたいんだお前は」

 ぬめりと体中から溢れる彼の呪いが彼女を撫で回した。
 水の中にでも放り込まれたような息苦しさは、この世界の人間ですら感じたことも無いものだろう。人の恨みを一身に受けた彼は、逆に殆ど全ての人間に対して憎しみを抱いている。そんな人間の憎悪に体を舐められた聖女は、一瞬言葉につまり声を出すのすら辛く体を震わせた。

「そ、それは、それは、こんなことが神が許すもので無いから」
「これは神の思し召しだ。お前らの神から選ばれた賢者が決めた裁きだ、つまりはお前が決めたんだ。これはこういう採決をお前らの神が決めたんだ、お前が許さないといった神が作り上げたんだよ」

 全ての暴力の先にはお前の神がいると彼は告げる。
 呆然とする聖女、自分の信じている土台が崩れ落ちる時人間はどうしようもない恐怖に打ちのめされ二つの行動しかしない。その土台を生涯信じ続けるか、諦めるか、海晴は彼女の前でひたすらに顔をゆがめる、どこまでも不細工と言えない顔は心の歪みを相手に見せ付けるように、とても嬉しそうに笑った。

 ただ自分の信じる土台が崩れる人の様を見て、彼もまた理不尽に暴力を浴びせた人間と同じ笑みを作り上げる。

「どうだ、少しはお前の信じているものを理解してくれたか。お前が妄想で作り上げた清廉潔白な神なんてこの世に無い、神はどこまで理不尽で傲岸不遜で、人間なんて固体に一々感情を抱くような存在じゃないんだよ。人間がまさか特別な存在とでも思ったか、猿から進化して猿以下に落ちぶれた生命が、そんな素晴らしい存在であってもらったら、俺はどうやって生きていけばいいんだよ」

 自分だけが人間の塵芥と思って生きるのは、なかなか生きてけるものじゃない。
 その狂って感情さえ発狂しているのだろうか、嬉しそうに歪んだ表情のまま彼は途方にくれた子供のような声を出す。痙攣するほどに歪んだ彼の顔は、目の前の聖女に対して汚濁を塗り固める。人間に対する信仰がどれほど無様であるかを刻み付ける。

 ただ黒いからそう言って異端をねじ伏せたものたちに対して、彼は純粋なまでに憎しみを抱く。
 その根源ともいえる宗教と言う名の差別で、死に絶えた自分と言う名の人間が持っていた憎悪の限りの情念を抱えて。

 貴族と言う階級に対して抱く、ただルッコラ達と笑っていたかったあの頃に起きた崩壊の原因について。彼は心の中で思う全ての憎しみをただ一人の人間に押し付ける、ただの八つ当たりとして、ただの行き場の無い怒りの発散元として。

 吐き出すことすら許されなかった、その感情の捌け口を見つけ、今まで吐き出すことすら想像しなかった彼の怒りが撒き散らされていた。

「だから俺はお前の信仰なんて滅ぼしてやる、この世界に生きる全ての奴に後悔させてやる。まずこの国だ、どうあっても後悔させてやる、どうあってもだ、どうあってもこの笑いあえる純粋な世界なんて許さない」

 がやがやと笑い声の耐えないこの国に、たった一人の人間がここまでの憎悪を抱く。芽生えた感情がせめて悲しみであればよかったのに、それを許してあげる世界でなかったから。
 綺麗に治った体を縫い付ける場所は、見ているだけで赤黒く染まり果てた血の焦土だ、どれだけの憎しみが彼に与えられたかなんて想像つかない。

「けれど、貴方はきっと殺される。貴方の罪で殺されるんです、それが神が与えた貴方への試練です」
「試練、試練ねぇ、試練かぁ、なら俺以外を巻き込む必要は無いだろう、なかったんだよ。俺一人でよかったはずだろうが」

 彼の足元には見えない屍がいる、一番最初はルッコラの娘と夫、ただ生き延びたいが為に殺した千人以上の屍、自分の立場も弁えずに囲った奴隷達。全部彼の所為で死んだ、彼が生きているから死んだ。死にたく無いと必死に思った彼がいたから殺されたのだ。海晴の手は血に塗れているだけじゃない、その血で体ごと腐り落ちているのだ。
 耳は怨嗟の声で聞こえない、咽喉は飲み込んだ死肉で焼け付いている。目はただ自分の憎しみで燃え尽き盲目である。

「自分の所為で死んでるんだよ。それは試練じゃない、ただの理不尽だ。お前の神は血に塗れいてるんだろうな、これだけも俺に殺されさせて試練と言うぐらいの神だからなぁ。いっそ殺してくれればよかったんだよ、あの男もあの女も、あの人もあいつも、はははははでも死にたく無いんだよ、死にたく無いんだよ」

 知っている海晴は自分がどれだけ、惨めかを理解している。理解しても必死にそれを受け入れても、ただ死ぬのが怖かった。
 だから殺した、見捨てた、裏切った。

「なんで死にたく無いんですか、あんな事までされてどうせ殺されるのに」
「死にたいわけ無いだろう、一分一秒でも生き延びてやる。生きている限り、生きているからこそ、お前らを殺せる、お前らが殺せるんだよ。この世界が殺せるんだ、可能性がある限り諦めてたまるか、怖いからこそ死にたく無い、お前らに何も出来ないうちに死んでたまるか」
「まだ殺す気ですか、まだ殺して何がやりたいんです。貴方一人死ねば誰もが救われるのに、貴方が生きているから誰かが死ぬのに、また誰かが救われないのに」

 そこの場所に神はもういなかった。聖女の心にいた神は、間違い無く海晴によって抉られた。
 彼女が吐き出す心は宗教なんて交わる事の無い、ただ純粋な人間としての感情だったのだ。一層海晴は表情がつりあがる、それはきっと怒りもあっただろう、喜びもなにより、この世界で人々が信じる神に対する侮蔑があった。

「だってそれじゃあ俺が救われないだろう。だから自分を救ってやるんだよ、誰も救ってくれないならそれしかないだろう」

 誰かに救われるのではなく自分で救うしかない。簡単な様で途方もなく難しい行為だ、けれど彼はそれをするだけの意思がもうあった。
 そんな彼の不気味で愚かしい感情に、彼女は背筋を冷たくして表情を引きつらせる。ここにいる人間がどれほど、人として終末に向かっているか想像したのだろう、これだけ惨めだというのに、それと同時にどこまでも自分本位なその姿に気持ち悪きなり吐き気を催した。

 ととのった表情を歪め、汚れ一つ無い綺麗な肌が青く染まっていた。
 生きている価値すらない人間がいることを、少女はようやく気付いたのだろう。ここにいる男は絶対に殺す、生きている限り何かを殺していく。それが自然原理の最もわかりやすい表現であるにせよ、人でいる価値は既に無い。
 元々が感情の無い生き物だ、死ねと言われれば簡単に首をつって死ぬかもしれない。きっと昔であれば家族のその言葉ひとつで間違い無く吊っていた。

 けれど今は人としての感情がようやく芽生えたのだ。ゆっくりと確実に、その感情が彼をきっと生かす。今はまだまだ子供のようなものだが、所詮人間生涯駄々をこね続ける子供だ。
 その意思に歪みなど無い、元々歪んでいるのが常態の様な意思なのだ。

「だから生きているんですか、他の人がどうなってもいいから」
「許せないだけだ、生きているだけで許せない。笑っているだけで許せない、神を騙っていることが許せない、ただの嫉妬これはただの嫉妬だから、誰にだって分け隔てなく許せない」
「それだけで、それだけで殺したんですか。同じ人間を殺せるんですか」

 そう言う彼女に向けて彼は、鼻で笑う。

「ああ、だってお前らがしてきた事を仕返すだけの話だろう。やられてやられないなんて思うなよ、人でなし共」

 だが明確に告げる言葉は、お前らのほうが人間じゃ無いと言うだけの対応。その言葉に火をつけられた様に顔を真っ赤に染める聖女は、海晴の頬を叩く。当然の話だ、彼の言っている全ての言葉はただのわがまま、それを簡単に受け入れるには少しばかり時間がかかるだろう。
 何より彼も彼女も相互理解を求めるつもりが無い人種だ、一人は我侭から、もう一人は信仰から、どこまで言っても自分信仰と宗教信仰なのだ、別々の信仰を持っている人間が分かり合えた奇跡など、この世に一度として訪れた事は無い。

 一度なりふり構わず神を捨てたはずの聖女も、どこまでいっても所詮宗教からの考えにしかならない。結局そこが彼女の原点だからだ、ひねくれた男はそれさえ許せないのだろう、彼女の心にある神を蹂躙する。
 優れた神などいるはずは無い、慈愛の静止を持って人々を救済する神などいて欲しくも無い。いるだけであれらは敵だからだ、全知全能なら無知無能の無謀が挑むに値するだろうと、秘める怒りと吐く怒りにねじ込め推進力に変える。檻に放り込まれた、獣のまま外敵に吼え猛る無残な飼い犬は、そう言って目の前の敵に威嚇する。

「どうせ殺されるでしょう、あなたと言う人間が生かされることがあると思っているんですか」
「だから生きてやるんだ、ここで今生きているから可能性があるんだ。この世界にまだ、引っかかっている、だから殺されない」
「無残な言い訳です。貴方は死ぬ、絶対に殺されます」

 彼女は段々と牙を向ける。神の信仰で丸められた人間の牙が、ぬるりと生えて来た。
 一歩一歩確実に海晴に向けて歩みだす。地べた這いずる下知の愚民をねじ伏せる神の光を体のうちに篭めて、それでもその光さえたゆたう様に見える。

「人間ですらないくせに、人であるなら人を殺す愚劣さを最も知るはずでしょう。貴方はそれさえ出来ない人間の失敗作のせくに」
「それはお前らがそう仕向けただけだろう。我慢したぞ、必死に我慢した、何度も何度も我慢した、なのに笑っていたくせに何を言う。お前のような人間が、お前のように人間らしい奴が生きていたから俺がこうなったんだ」

 どの世界にも光があれば影が出来るのは当然の摂理だ。
 人間だって同じだ、誰にも喜ばれる聖人君主がいれば、何処かでその光によって作り出された外道がいるはずだ。調和を求める世界において特化することは、ただその安定を乱すものでしかない。
 毒をもって毒を制する言葉は、ある意味その摂理を告げているのだろう。

 それを肯定しているわけではない、それを海春は信じているわけでも断じてない。そういった論理があるのなら使うだけの話なのだ、手練手管は全て使う彼に残されたものなどその程度だ。知識がある、現代に生きた人間の知識がある、足りないにもほどがある頭脳が作らなくてはならない知識がある。
 この世界で唯一彼が持っている武器だ、思想という名の剣だ。二千と数年で世界を滅ぼせるようになった知識と思想が、ここにいる止まっている思考に劣るはずがない。

「綺麗なものが増えれば汚れたものが出来るんだ。これはなんというんだったか、そうだお前らの言う天秤の調和だ」

 そして彼は憎むべき彼女たちの宗教の教えさえも頭に入れている。この世界の最高学府で最優良の成績を持つほどだったのだ、その程度の事が出来なくては何のためにマイゼミに嬲られたのか理解も出来ない。
 彼は優秀なほうではないが、けっして無能ではないし努力家だ。この女に対して自分の持つ術の武器を使って、存在を奈落に蹴落とす意志を持っている。彼の歪んだ心の部分に気づけないまま、彼女は彼の毒を浴びせられ続けた。どこまで言っても綺麗な人間である彼女は、自分に浴びせられるこの彼の感情が悪意であると理解しながら、本質的な意味を理解していない。

 この全ては所詮は戯言、彼の言葉の一つ一つに価値もましてや意味などありはしない。彼の言葉の全ては所詮罵詈雑言でしかないのだ、一つたりとも意味などないただの罵倒。これしか彼には出来ないからそれを振るうだけだ、彼女の倫理法があるように彼には言葉しかないのだ。

「認めないさ、断じて認めるか。調和も平等も所詮、お前らという人のみに与えられた特権なんだろう人間、それと俺に否定の意見を出すなら神以外の言葉を使えよ。言い訳は聞き飽きたからな。わかっただろう同じものを人間扱いしない人間という名の高潔種、思うよ俺はお前ら側にいなくてよかったって、少なくとも弱者の言い訳だけはよく出来るようになった」

 その彼の言葉を聴いた彼女はもう一度海春の頬を叩いた。だが気にしない暴力で言葉を告げさせなくさせるのは、ある意味簡単で手っ取り早い猿の手管だ。
 だが毎回彼がそのままでいるはずが無い、叩かれた手を睨み付ける。杭打たれた手を強引に片方引き千切りながら、彼女の腕に噛み付いた。激痛の走る腕に何が起きたかなんて彼女は理解していないだろう。
 ただ悲鳴を上げるように金切り声が当たりに響き渡っただけだ。歯が肉に食い込む音と血のにじむ感触で確実に彼女の体の傷を与えたのは確信できた。

 そのまま血からませにかむ力を強めて彼女の腕のに噛み切った。痛みの余り正常な会話さえ出来ず、嗚咽のような声をあぅああぅと上げる聖女の姿は、痛みに怯えたただの人だった。それだけで海春は満足だった、貞淑に染まった神の使途を穢れた色で塗りたくれるだけで心がすく様な気持ちになる。
 彼を見て怯えた表情をする聖女の肉をおいしそうに租借してみせる。この顔が歪んで、神の色さえ塗り替えてくれれば良いのだ。白とは何にでも染まる色だ、良い変えれば汚れるために存在する色なのだ。そんな色を常に纏い続けた聖女は、ただ一人の劣悪の絵描きによって極色彩の奈落を描き出す。

 そして彼女の肉を飲み込んだとき、その場で吐瀉物を巻き散らかして、血塗れになった腕を抱えながら悲鳴を上げる、ただの少女の姿があった。そしてその姿をひたすらに笑う彼の姿は、もはや形容できないほどに歪んでいた。もう正気では既に無いのだ、この全てはこの世界が作り上げた人間の始末だ。
 狂気ともいえないが、既に正気では断じてない。破綻に破綻を重ねて崩壊しているのだ、それでも一筋の芯があるからこそ彼を狂気とさせない。正気でない悲劇を、正気で作り上げる事の出来る人間が一つ完成していた。

 それからは血だらけになったまま悲鳴を上げる聖女が、ただ一人体さえ動けないままの罪人にその存在基盤の尽くを叩き潰された証明がそこにあっただけの話なのだ。

「それがお前を支えてくれた神の作り上げた人間だよ。お前たちの教義が作り出した人間だ、俺を作ったお前らがただで済むと思うな、これはお前らの教えの結果だ」

 血に塗れた男が怒号のごとく怨嗟を撒き散らす。その吐き出される絶対的な宗教へ冒涜は、彼女が逃げ出した後も刻み付けられ頭の中で鳴り止む事はなかった。

***

 彼女は部屋に戻ってからも恐怖が拭い去れなかった。
 あのただ一人の人間は彼女の全てを否定し尽くした。彼女に捧げられた、恐怖も痛みも嘲笑も全て海春が作り出したものだ。
 グールのように血を滴らせ、人食と言うあるまじき害悪を成し遂げた。最も彼が彼女の体の一部を食したのはただの嫌味だが、人食いが好まれる世界観というのは中々あるものではない。それがましてや宗教に生きるものであれば当然の話である。

 まだ涙が止まらない、震えもどんどんと激しくなっていく。歯さえ重なり合う事無くカタカタと激しくぶつかり合う。

 人間だったのに人間じゃなかった。ただ正気でないだけの人間に彼女は怯える、真っ青に染まる顔はただ一人の人間に打ちのめされたという証左だろう。
 倫理使いにして賢者の再臨とまで呼ばれた少女、レステンド=マーフェネはもはや他人と顔を合わせることすら恐怖を抱くようになっていた。

「何で生きているんです。どう考えても自分でも死にたがっている人が、どうして」

 わからないのだ、海春を傍目から見ればあんなのは自殺志願者の大量虐殺者だ。大体自分は生きたいと言っておきながら、あれほど自分さえ嫌っている人間は早々いない。
 彼女にはまだ理解できないだろう。彼にとって犠牲というものがどういうものかを、二人の経験の差がここで間違いなく齟齬を生み出していた。かたやこの世界で救いを与えられなかった男と、英雄のように扱われ傷つけることすら罪になるほどに世界に愛された女。理解できるはずも無い、お互いがお互いを似ていないどころか対極だ。
 こんなもの憎みあうか、無視しあう以外の選択肢は無い。

 しかし彼女もまた彼のようになる素養があるのだ、海晴とは対極だからこそ。正気ではない人間になる才能があるのだ、彼は気付いていないだろう。ただ目の前にいる不愉快な人間の土台を滅ぼしてやろうと喚いていただけなのだ。
 震える彼女の目に映る海晴の姿は、最早人間と形容してやるにはおかしいものだった。

 生きていてはならないものだったことを彼女は理解する。それはきっと恐怖から逃げるための思考だったのだろう。逃避と言うのは人間が最も楽な方向に逃げるときの行為だ。まだ精神さえ成長しきっていない彼女は怯えるしかなかった。その怯えの原因である海晴を彼女は神と言う言い訳を使い心の安定を図ろうと考える。
 しかし鳴り止まない言葉が彼女をその思考に連れて行くことは無かった。

「けどそれは許されるのでしょうか、私がそれをする事が許されるのでしょうか」

 きっと海晴は喜ぶだろう。今のこの彼女の姿を見ることによって、どこまでも神や聖女が穢れているのかの証明になるのだ。その全てを汚したのが自分だと理解すれば満足そうに笑ったかもしれない。
 だが震えている聖女は自分の身に宿ったおぞましい感情を理解して、困惑しながらも停止させる思考が芽生えない。
 食い千切られた筈の腕は既に治っているが、まだ刻み付けられている恐怖が彼女を幻肢痛のような痛みを呼び起こす。体があるからそれは少しばかり語弊があるが、その幻想の痛みが彼女を苛む。

 そしてこの痛みがきっかけのようなものだ。この痛みこそが彼女の恐怖を思い出させる、思い出すだけでこをを張り上げ逃げ出したくなる海晴の恐怖。
 絶対に彼女の柱はまた潰される。狂気でもないが正気でもない海晴と言う存在の決意と意地の前に、彼女の神など免罪符扱いされるだけだ。それは根底を打ち崩す代物だ、思い出すだけ恐怖が募る。

 彼女はある一人の人間の出会いによって、自分のこれまでを完全に否定されていた。

「殺さなければ、殺さないと、殺さないと、あの人はきっと生きているだけ何かする、絶対にあの人は生きている限り私達を否定する」

 それは断じて否定しえない事実だ。
 この世界で生きているもの全てが海晴にとっては憎むべき大敵といってもいい。そこまで人間を追い詰めてしまった世界は、彼によってその全てを完全に否定される。それが浸食していく燃焼と同じ暴虐だろう。彼の生きる全ての糧が炎である以上、それは仕方ない事かもしれない。

 海晴と向かい合うだけで彼女達はその常識と言う名の地盤をねじ伏せられる。あの犯罪都市だって彼の一言で、恐怖をねじ込まれた者たちもいる。眠れない夜を過ごしているものだっている。彼はそれを無意識でやり遂げたのだ、自分はこいつらを殺すという確証も無いくせに、心の底からそれを事実と思っている人間だからこそ出来る発言。

「恐ろしいです。主よ、彼はきっと行ないます生きている限り殺します。どうしたらいいんですか、お願いですから教えてください」

 けれど彼女に返される言葉などありはしないのだ。神など所詮幻想で、いたとしても人間なんて生物は猿の末路としか思っていない。
 神にとって全ての命が平等であるのなら、人間だけに慈悲を加えるようなマネはしない。全ての生命に平等の不干渉を与えるだけなのだろう。けれど弱き迷える子羊は、自分の恐怖から逃れる為に信仰に頼り、縋り、絶望する。

 けれど彼女はその地盤が崩れているのを確かに感じていた。
 自分の立つ思考の末路をいやでも刻み付けられているようだったのだろう。泣きそうになる心を、必死に祈りでごまかしていく。だが彼女の心に刺された海晴の言葉は、信仰心を根絶やしにするように聖女の心を深くかき乱していく。
 抉り出される心の腐敗を掻き出される痛みに、目の前のもの全てが信じられなくなっていく。

「生きていてはいけない人なのに、生きていることだけで罪だというのに、命を奪うだけなのに」

 それでも生きていたいのだ。死にたく無いのだ、今まで人間が積み上げた宗教と言う名の理想と同じだ。屍を積み上げた彼の生涯の後悔と言う名の意志が、彼を生かし続ける。これは一代限りの妄執だ、しかし三千年もの間に深く根付いた世界の宗教に打倒するだけの妄執であるかもしれないのだ。
 わがままでひたすらに子供が、喚き散らかす世界の不満。どんな世界にも絶対にある不満、ただそれを声高に叫ぶ彼の姿は、後悔の殉教者に過ぎないのかもしれない。けれど彼女はその存在を認めるわけにはいかない。
 どれだけ尊くあろうとも、どれだけ崇高な意思だとしても、彼は殺すのだ人々を殺してしまうのだ。呼吸するように烈火で焼き尽くし滅ぼすように、人の心に憎悪をねじ込み人を破綻させていく。

「けど、けど、殺すしかやっぱり無い…………」

 だからこそ彼女は彼の存在を許すわけには行かない。自分の心の安定のため、自分の自己の確立の為に、そして何よりこの拭い去れない恐怖の根源を根絶やしにする為に、聖女と呼ばれる少女は、千人殺しの悪魔を殺す決意をするのだ。 
 生きている価値が無いことを認めさせる為に、この世界に善があると認めさせる為に、ただ現実に打ちのめされ、理想になぶり殺しにされた男を彼女は滅ぼす意思と言う名の殺人権利書を手に入れた。

 嗚咽が広がる、本当はしたくなんかない。けれどしなくては何かが終わる気がする。
 彼女にある全てが終わる気がするのだ。目の前に生きている全ての人間が、一人の人間に殺戮されるような気がして、そんなただ漠然とした恐怖が、これから先の彼女を苛み続けるのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 それでもある一抹の優しさが、もしかすると海晴と言う人間に対して与えられた最後の優しさであったかもしれない。
 ただ謝罪と涙が彼女の部屋に響き渡る。その慈悲深さ確かに聖女と言えるかもしれない、その彼女の優しさ自体が海晴を傷つける剣になるのだから、世界はなんと容赦の無い代物であるのだろう。

「ごめんなさい」

 ただその優しき断頭台は、その最後の最後まで涙を流していない人間に謝罪する。
 これは彼女の独善だ、生きているだけで殺す人間を自分が殺して根元を断とうという。だがその覚悟が出来れば後は彼女も賢者の階段を登っていくことができるのだろう。そしてまた一つただの人間によって英雄の器は砕かれた。

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