大盗賊如き彼女の前では敵にさえならない。王法所持者を複数とは言え倒す事を成し遂げるような化け物に、たかが四法所持者がどうにかなるものではない。 そんな事は馬鹿でも理解できる。可能性で勝てるほど英雄は弱くは無い、しかしながらその戦闘が起こる事は一度としてなかった。彼が屍のように生きている理由がそこにあるのだ、これは生贄この都市が生きるための猛獣への餌だ。この世界で一番弱いものを強いものに食わせると言うただ単調な自然作業、あまりにも明快な弱肉強食がある。 大通りを引き摺りまわされる彼の姿は見ていて滑稽ですらあった。それは見せしめであり彼らの安全を示唆する言葉、そしてその彼を引き摺り動かしていたのはルッスと言う名の彼の部下だ。 まさに栄光を受け取る男、そしてその男こそ傷持ちの一人であった。 英雄の後ろは一つの敗北の形がある。馬の歩みについていけずに、大通りを引き回される屍のような男。それこそ海晴の姿だった、彼に浴びせられるのは、常に栄光ではないとは言え無残なものだ。 ここには傷持ちが多い、結果として恨みが彼に襲い掛かる事だってあるのだ。受け入れるしかない、今や弱者と成った彼は、この都市では食い荒らされるだけの人間に代わってしまった。これは彼の地獄の始末だ、自分の罪は自分が償うしかない。 その投げつけられる負の感情は彼が受け止めなくてはならないもの、彼の心はそれを全て受け入れ刻む。お前の罪はお前で死ねと、世界はそういい続けているような気がして彼はならない。 けれど受け入れる、受け入れられるだけ受け入れる。これは彼の心に秘める唯一つの感情の炉にくべる薪だ。どれほどの絶望がこの先に待ち受けていたとしても、これさえあれば生きる気力には事欠かない。彼らがいる限りはこのくべる薪は足りないことなど無いのだろう。 これはありがたい、本当に彼はそう思う。痛みなんてものはまだこの程度、まだマシに思えるだけの地獄を味わった。 それが娯楽であるかもしれない、だが彼はここにいるすべての人間に適用する感情だ。 感謝したい、それだけは本当に思うのだ。これほどの感謝は無い、ただ目の前にいる人間が一人生きているだけで心が動く。 生きていることが嬉しかった、冷たく体が落ちていくその瞬間も死にたく無いと願った。生きていることがこれほど素晴らしいなんて思わなかった。 「はっははは、ははは」 だから笑うしかなかった。嬉しかった、嬉しかったから、今は受け入れる。 殉教者といってもおかしくないはずで、ある程度しか鍛えられたことの無い体。服は擦り切れは露出する肌は、彼の過去の虐待を体に刻み付けている。そこにまだ刻まれる傷の跡さえ誇らしそうに笑っていた。 海晴はもう後ろには道が無い、逃げる手段はもう用意されていない。 「そう言うものだったのか、こんなこと昔の世界で気付けばよかっただけなのに」 受け入れるだけじゃ駄目だった。ただ受け入れるだけでは許されなかった、漠然と生きることの許された現代だからこその生き方は、もうこの世界では許されない。 今ようやく教えられた、他人に傾倒する人生は他人の崩壊によって死滅する。 最もそれは捕らぬ狸の皮算用と言う奴だ。 たぶんこの世界で、彼が敵と断定している最初の存在がそこに居るのだ。彼をここまで追い詰めた大英雄が居る、あの息子を作り出し、奴隷達を破壊し、まさか彼の世界では魔女狩りとさえ呼ばれるような宗教淘汰をしでかした人間だ。この世界における彼の最大の敵、その戦力差は権力を含めて絶望的と来ている。宗教に政治に戦力、これだけの敵が彼の前には立ちはだかっている。 視界に入ることすらおこがましいほどの敵、これほどの無残な敵が居るだろうか。これほどまでにどうしようもない戦力差の敵に彼は見(まみ)える事ができる。 彼のもらした声でさえ、ざらついた咽喉の奥から枯れたような音にしか聞こえはしない。 都市の唯一の通りとも言える大門にまで彼はつれてこられた。ただ一人そこに剣呑とした空気を保ちながら英雄が君臨している、言葉はまともに出ない、海晴の目が見開かれる。まともに動かせない体をくねらせ正面に刻みつけるように、賢者をその眼窩に納める。 孤独の恐怖を既に愛しい人と刻み付けた彼女は、息子の死を終わった事にしていたのだ。少なくとも海晴の目にはそう見えた。 傑作だ、彼の意志は全て彼女には届かないと言う証明がされたのだ。 「我が息子 マイゼミの仇であるアマハルですね。家名は無いようですが、あなたの事は許しますよ。ただ罪を償ってください」 ただ縛られた彼に手を当て、倫理法を行使して体を直した。 どれほど息子が殺されようとお前は既に眼中に無いと、眼前の敵がそういっているのと代わりがなかったのだ。つまり彼は彼女によってここまで貶められながら、彼女はただ罪人を処する裁判官のように、淡々と彼を貶めていたのだ。 だが彼は口を開く事ができない、理由はさして難しいことじゃなかった。 それこそが賢者の報復であったのだ。 「何度でも許しましょう、あなたの罪を私は許します。だから罪を償ってください」 だってそれは暴力だったから、誰にも気付かず彼の体を破壊する毒を与えた慈母の笑みだったから。いやでも賢者の言葉を聴いて悪寒がはしった。 そうだこれは暴力だ。彼の行なった全てを彼女は無かった事にするという。ただの犯罪だと彼女は言ったのだ。 今まで彼が受けてきたどの暴力よりもそれは理不尽だった。お前の行動は全て国の範疇で治まるほどの些事だったと言われた。だからマイゼミを殺した事も許す、ただ罪を償って社会に出ろと、差し出されたのは彼がこの世界でルッコラに受けた救いと変わらない。 賢者はそれを自覚して言っていた。だから今の彼の表情も彼女の勝利の美酒と変わらない。 「だから私に謝罪をしてください。最低限の罪滅ぼしに」 ダンと断頭台が彼の首に振り落とされる。首が転がり体と頭が一生の別れを行なう。 ようやく彼は理解した、この賢者は何一つ許していない事を、聖母の怒りとはここまで劣悪なものとようやく理解させられた。 屈辱なんて代物じゃない、その一言が死刑宣告よりも人道的に下劣だった。 どこからが群集がわらわらと集まり彼を抑え付ける。一度折れた心が捻じ曲がる、必死に抗ってみたが数の暴力には勝てず地面に彼を叩きつけ謝罪を要求される。間接を固めた腕がそのままへし折られる、胃液を撒き散らしそうな吐き気と痛みが目の前を白くした。けれどそのたびに彼女は傷を治す、そして折られる、その繰り返しが少しばかり続いた。 ただ一人この集団に殺されつくしている男の仲間として存在している男だ。四法まで使って彼を手に入れたのだ、その理由は全て自分を英雄にするため。たった一人の英雄殺しを捕まえる為に、ただ最善を尽くしたのだ。 「お願いです謝罪を、お願いですから謝罪を」 また一つ腕が折れた、もう一つ骨が、もう二つ骨が、呻き声だけが響いて楽しそうだ。誰も疑問に思わないのだろうか謝罪を求める女が、暴力を肯定しているその姿を、ただ一人だけ暴力の呑まれず見るものがいた。 ルッスである。 それは冷静な彼から見れば悪夢だった。人間の浅ましさがそこにはあったから、吐き気がしてならない、それは海晴を狙っていた人間を見ていたときから感じていた事。地獄の亡者たちはと言うのはこういうものだろう、賢者と言う免罪符があるからこそ、いくらでも暴力的になれる。だが彼だけは違う、ただ一人彼に仲間となった人間だ。 全ての人間が行っている事は、謝罪を要求する術ではないのだ。今の惨劇は、集団の暴力が単体に振るわれる光景、それは餌をばら撒いて集まる鯉の食欲にもにている。 生きているだけになってしまう。 謝罪を要求する優しい慈母の笑みが一人の罪人を殺す。ルッスはただその光景を見るだけだ、これが英雄の今の姿であると、この世界のもう一つの局面を彼は見てしまった。狂う、これは正気を失って当然だ、一人でこの暴威を受け止めていたのだこの男は、しかもこれに敵対しようとするその姿さえもルッスは起こりえない現象のように見えた。 負けている、ここまで完膚なきまでに負ける男はそうはいない。奴隷に裏切られ、同じ都市の人間に裏切られる、雇っていた人間にさえ、まるで病気のようだ。悪い病気をこの都市が患っているようなそんな気さえする。その病気はどちらだ、海晴か賢者かそんな事誰にだって分かる、今敗北に地を伏す男だ。彼がこの都市に恨みと言う病気をねじ込んだ、それが今の暴力に繋がっている。 彼は毒だ、生きているだけで人に迷惑をかけつくす。いるだけで迷惑な人間、それが甘里海晴だ。 ただ答えるべき言葉も無く、彼はもらうものだけもらうと全てを見ないように自分の作り出した地獄から逃げ出した。 「謝罪をしてくれないのでしょうか」 最後通告のように彼女の声が海晴に響く。それと同時にユーキルの姿がどこからか現れた。 悲鳴も無い、意識も無い、ただ言葉も無い。ただ漠然とした嘆きがあるだけだ。 「あ、…………あ、こ、こ……と」 ただその姿を見て彼はまた意識を取り戻したというだけ。 「阿婆擦れ、お前に誰が謝罪するか。この世界に俺が謝罪するべき相手は三人しかいない、お前はその一人じゃ断じてないんだよ」 ベキベキとへし折れる骨に苦悶の声が吐き出されるが、賢者の表層は変わらない。その代わりに周りの殺意が膨れ上がっただけだ、喋れるようになったって変わりはしない状況だ。そんな事分かっていても彼は、屈服なんて絶対にしない、この程度で折れる心ではもう無い。何度も折れた心はそれぐらいの事を許してくれる。 もっと弱いものに、彼より痛みに弱いものに、それはただ一人だ。ぐるりと群集はユーキルを視界に納める、それが彼の感情を呼び起こす生贄だ。心を殺すつもりで心を一つ芽生えさせる。だがさも当然のようにその悲劇を止め様と賢者は彼に優しき願うのだろう。断るとわかっておきながら。 「お願いです謝罪を、謝罪をしてください」 脅し、満面の笑みで一人を殺す。それは人間じゃないから、人間であるはずが無いから。 どれだけ正気をなくしても、もう彼は諦めていた。その目の前の少女の命を、今の自分には彼女を救えないことを理解していた。 だから彼は見捨てる、救えないことを自分の無力を、全部理解してその上で受け止める。 「だからどうしたんだお前ら、自分の為だけに賢者の息子を殺して、千人以上の人間を殺したんだぞ。たかが一人でどうにかなると思っているのか、殺せさっさと俺を刺した裏切り者だ、殺せよさっさと」 彼に言える言葉はこれしかなかった。謝罪する三人のうちの一人に対して、彼がかけられる言葉はこの程度でこれ以上は無い。 糸が切れた。 「はははは、はははははは、ははは、くははははは、結局これか、これでおしまいか」 その死に様を彼は見て笑った。心のうちから憎念を引き出した声が辺りに響く、その笑い一つで群集が凍りついた。 「これだ、やっぱりこうだ、結局こうなる。あっちもこっちも変わりやしない、いっつもこうだやっぱりそうだ。 一つ二つと釘が刺された、その声は群集を呪う。一度、二度、三度と、その言葉は一瞬で恐怖を作った。 「絶対にだ、これだけは忘れるな、殺してやる。世界だろうが、なんだろうが、皆殺しにしてやる。生きているんだ死ねるだろう、生きていろ俺がここに戻ってくるまで、生きていろよ、殺してやる。殺してあげるから一人として死んでくれるな、千人じゃ足りないなら万人か、億人か、どちらにしろ殺せば良いんだろう。絶対に俺が戻ってくるまで死んでくれるな、俺からの最後のお願いだ」 ゆっくりと頭を下げる、ある言葉を添えて、それが考えてみれば彼が始めて人に対して行なう必死のお願いであった。 「今殺してやれなくてすまない、絶対に殺してやるから生きていてください」 謝罪をする、その全てに呪いを篭めて。そしてその願いが人間を狂わせ、限界に来た一人が狂を発するように声を上げた。武器を持っていた一人だったのだろう彼は一歩の槍を彼に投げつけた。それが腹を貫くのは容易く、それから何人もの恐怖を生み出した。たた狂気を投げるだけの動作、海晴と言う人間だけに恐怖した人間が彼を殺そうと喚いた。 彼は無力だ、いまだ誰一人として殺せない程度には無力だった。ただその刃たちが彼の足や腕を千切れさせて彼はそのまま命が消えそうになる、そんな彼を救ったのは賢者であった。彼は死ぬ事など許されない、地獄がくる。彼にはそれしか与えられないのだ。 死体の墓標のように、槍に突き立てられた体から呻くような呪いが零れ続ける。忘れるな、絶対に生きていてください、絶対に殺してあげますから。 「覚えていろ」 ただ残響が呪いの音色を響かせる。 なにより獅子の牙が彼に食い込み、聖者の浄化が彼を蝕む様な世界で、その全てをねじ伏せようと挑むのは難しい話だ。誰もそんなことできると思わない。 |