九章 必要ないのだ


 ずりずりと豚でも引き摺る音が響いていた。豚は死んでいないようで声を息を吐く、鍛えられて無い薄い体が砂利に食い込みさらに痛みを吐く声が耳に響いた。
 その光景を人々は笑いがなら見ているのだ。今この都市は英雄率いる軍隊に囲まれている。
 英雄殺しである海晴一人の為に用意されたものだった。賢者はここで海晴を殺そうとしていた。彼がこの都市の人間に捕まらなければ、この都市にいる人間ごと皆殺しにするつもりだったのだ。

 大盗賊如き彼女の前では敵にさえならない。王法所持者を複数とは言え倒す事を成し遂げるような化け物に、たかが四法所持者がどうにかなるものではない。

 そんな事は馬鹿でも理解できる。可能性で勝てるほど英雄は弱くは無い、しかしながらその戦闘が起こる事は一度としてなかった。彼が屍のように生きている理由がそこにあるのだ、これは生贄この都市が生きるための猛獣への餌だ。この世界で一番弱いものを強いものに食わせると言うただ単調な自然作業、あまりにも明快な弱肉強食がある。

 大通りを引き摺りまわされる彼の姿は見ていて滑稽ですらあった。それは見せしめであり彼らの安全を示唆する言葉、そしてその彼を引き摺り動かしていたのはルッスと言う名の彼の部下だ。
 彼は一躍英雄になる、それは王者の凱旋だ。拍手が彼の歩みを彩り歓声が、彼を神聖なものにと変えていった。

 まさに栄光を受け取る男、そしてその男こそ傷持ちの一人であった。
 賢者としてはこれは好ましくない、だが彼だけ特別だと言い張ればどうだ。結局彼女の復讐の腕は海晴を抱く。それ以外のものに彼女は目をやることはなかった、英雄にあるまじき陰惨な暴力の衝動は彼女の表情を魔女へと歪める。
 心の内を泥で塗りたくり、復讐と言う名の暴力と、権力と言う理不尽と、女と言う感情が、もはや見るに絶えないものに変わっている。

 英雄の後ろは一つの敗北の形がある。馬の歩みについていけずに、大通りを引き回される屍のような男。それこそ海晴の姿だった、彼に浴びせられるのは、常に栄光ではないとは言え無残なものだ。
 石を投げられて当たり前だった、開いた腹の傷が大通りの血を残し、投げつけられる石が彼の額を割ってまた傷が一つ、そしてまた血が零れる。

 ここには傷持ちが多い、結果として恨みが彼に襲い掛かる事だってあるのだ。受け入れるしかない、今や弱者と成った彼は、この都市では食い荒らされるだけの人間に代わってしまった。これは彼の地獄の始末だ、自分の罪は自分が償うしかない。
 それは最早当たり前の事だ、この世界ではこれが全うは法則なのだから。

 その投げつけられる負の感情は彼が受け止めなくてはならないもの、彼の心はそれを全て受け入れ刻む。お前の罪はお前で死ねと、世界はそういい続けているような気がして彼はならない。

 けれど受け入れる、受け入れられるだけ受け入れる。これは彼の心に秘める唯一つの感情の炉にくべる薪だ。どれほどの絶望がこの先に待ち受けていたとしても、これさえあれば生きる気力には事欠かない。彼らがいる限りはこのくべる薪は足りないことなど無いのだろう。
 それだけはありがたいと海晴は思った。彼らが生きているだけで自分が生きていく事が出来る気がした、もうこれは間違いない事実だ。

 これはありがたい、本当に彼はそう思う。痛みなんてものはまだこの程度、まだマシに思えるだけの地獄を味わった。
 生きていける、その一言がどれだけ嬉しいことが彼はようやく理解する。人間が生きていくには、食料だけじゃ駄目だ、目的がなければ生きているだけで死んでいるのと変わらない。

 それが娯楽であるかもしれない、だが彼はここにいるすべての人間に適用する感情だ。
 感情が彼を生かしている、今ここにいる人間たちのおかげで生きていけている。唯一つ世界は優しいとすればまだ自分を生かしてくれていると思えるところだろう。ただ人が生きているだけで、本来ならその自責の念だけで死んでもいい男が生きている理由は、ただ世界に人間が生きているというだけなのだ。

 感謝したい、それだけは本当に思うのだ。これほどの感謝は無い、ただ目の前にいる人間が一人生きているだけで心が動く。
 世界は彼を殺そうとしていた。当然の話だ、異物を世界が好むことなどありはしない。
 けれど彼はだからこそ生きていける。世界が存在しているから、人間が生きているから、あの時止まれないと感じた衝動は、ただひたすらに彼の心を生きる為の糧を与えてくれる。

 生きていることが嬉しかった、冷たく体が落ちていくその瞬間も死にたく無いと願った。生きていることがこれほど素晴らしいなんて思わなかった。
 これから殺されるかもしれない、断頭台に歩いているのとさほど変わらない今でも彼は本当にそう思っている。

「はっははは、ははは」

 だから笑うしかなかった。嬉しかった、嬉しかったから、今は受け入れる。
 投げられる石を、浴びせられる罵詈雑言を、これから押し寄せる死への恐怖だって、人間や世界がある限りどうにでもなる気さえした。こいつらが生きているなら生き続けてやると、その声を聞いたルッスは肩を震わせる。
 この人はこの状況で笑えるのかと、手綱を持つ手が震える。万の賛辞よりさえ、たった一度の屍の笑い声によって封殺される。

 殉教者といってもおかしくないはずで、ある程度しか鍛えられたことの無い体。服は擦り切れは露出する肌は、彼の過去の虐待を体に刻み付けている。そこにまだ刻まれる傷の跡さえ誇らしそうに笑っていた。

 海晴はもう後ろには道が無い、逃げる手段はもう用意されていない。
 だから歩くしかない、歩けば後ろが崩れるそんな彼の道だ。誇り高く歩くしかない、それが心ではどれだけ惨めでも。

「そう言うものだったのか、こんなこと昔の世界で気付けばよかっただけなのに」

 受け入れるだけじゃ駄目だった。ただ受け入れるだけでは許されなかった、漠然と生きることの許された現代だからこその生き方は、もうこの世界では許されない。
 けど前の世界だってそうだったのだ。生きることを考えなければ死なないだけだった、この世界ではそれが如実に現れるだけ。だからいくら引き摺られたとしても、唯一つの生きたいという想いだけは、持ち続けなくてはいけないことを。

 今ようやく教えられた、他人に傾倒する人生は他人の崩壊によって死滅する。
 彼がそうだった、結局自分の為に生きていくことを彼はようやく覚えた。元の世界の時も、彼はきっとそうしていれば、ここまで失敗することはなかった筈だ。

 最もそれは捕らぬ狸の皮算用と言う奴だ。
 後の無い奴がもう自分の後ろを気にしていられる状況はもう無い。だから前の敵を見る。

 たぶんこの世界で、彼が敵と断定している最初の存在がそこに居るのだ。彼をここまで追い詰めた大英雄が居る、あの息子を作り出し、奴隷達を破壊し、まさか彼の世界では魔女狩りとさえ呼ばれるような宗教淘汰をしでかした人間だ。この世界における彼の最大の敵、その戦力差は権力を含めて絶望的と来ている。宗教に政治に戦力、これだけの敵が彼の前には立ちはだかっている。

 視界に入ることすらおこがましいほどの敵、これほどの無残な敵が居るだろうか。これほどまでにどうしようもない戦力差の敵に彼は見(まみ)える事ができる。
 
 大通り抜ける頃には彼の骨は幾つか折れていた、途中群衆の中から抜け出し彼を殴りつけた傷持ち達がいた所為だ。彼と言う弱いものに全ての恨みのベクトルが集中しているいまは、彼こそが傷持ちの敵であり都合のいい発散道具である。賢者の来る数日の間は、野ざらしで水以外の物は与えられていない。消えうせている体力に、喋る力は殆ど無い。

 彼のもらした声でさえ、ざらついた咽喉の奥から枯れたような音にしか聞こえはしない。

 都市の唯一の通りとも言える大門にまで彼はつれてこられた。ただ一人そこに剣呑とした空気を保ちながら英雄が君臨している、言葉はまともに出ない、海晴の目が見開かれる。まともに動かせない体をくねらせ正面に刻みつけるように、賢者をその眼窩に納める。
 そこに殺意がなかったわけじゃない、だが相手は彼を見ていなかった。もう生きていると見なしている目ではなかったのだ。

 孤独の恐怖を既に愛しい人と刻み付けた彼女は、息子の死を終わった事にしていたのだ。少なくとも海晴の目にはそう見えた。
 だからこそ見るだけで分かってしまった、視界に入れただけで海晴はその事を理解してしまった。これだけ殺意を向けた敵は彼を終わったものだとしていたのだ。充血するほど殺意を向けても、結局は変わらなかった。

 傑作だ、彼の意志は全て彼女には届かないと言う証明がされたのだ。
 ただ優しい微笑で彼女は息子の仇である男を見ていた。それが許せなくて彼は、むけられる一つの感情を彼女に向け続ける。だが今までのその平穏からは想像がつかないほど、いきなり彼の背中に怖気が走った。

「我が息子 マイゼミの仇であるアマハルですね。家名は無いようですが、あなたの事は許しますよ。ただ罪を償ってください」

 ただ縛られた彼に手を当て、倫理法を行使して体を直した。
 これは今まで生きてきて一番の侮辱にしかならない、目の前が血が目に入った時よりも赤く変色する。ここで殺してやりたいと思うほどに、けれど彼女もその程度の事は理解していた。これが彼女の復讐なのかもしれない、歯を食いしばり怒りを押し留めながら殺意以外を向けない彼の姿だ。けれど彼女は歯牙にもかけない、それはお前に何が出来ると言うただそれだけの侮蔑だ。

 どれほど息子が殺されようとお前は既に眼中に無いと、眼前の敵がそういっているのと代わりがなかったのだ。つまり彼は彼女によってここまで貶められながら、彼女はただ罪人を処する裁判官のように、淡々と彼を貶めていたのだ。

 だが彼は口を開く事ができない、理由はさして難しいことじゃなかった。
 賢者がその機能をまだ直していないからだ。それが彼女のささやかな復讐なのかもしれない、だがそれは全て否定形で語らなければいけなかった事実だった。

 それこそが賢者の報復であったのだ。

「何度でも許しましょう、あなたの罪を私は許します。だから罪を償ってください」

 だってそれは暴力だったから、誰にも気付かず彼の体を破壊する毒を与えた慈母の笑みだったから。いやでも賢者の言葉を聴いて悪寒がはしった。
 許すと、彼女は許すといった、だというのに行動はどうだ。喋る事を許さない、言葉を与える事を許さない。

 そうだこれは暴力だ。彼の行なった全てを彼女は無かった事にするという。ただの犯罪だと彼女は言ったのだ。

 今まで彼が受けてきたどの暴力よりもそれは理不尽だった。お前の行動は全て国の範疇で治まるほどの些事だったと言われた。だからマイゼミを殺した事も許す、ただ罪を償って社会に出ろと、差し出されたのは彼がこの世界でルッコラに受けた救いと変わらない。
 叫びだす声を封じられただ優しく、彼は賢者の慈愛の道具とされていた。彼女の優しきその姿に誰もが心を奪われる、この世界に残った最後の英雄だ。彼女の言葉に誰もが聖母を見る。だから彼は許せなかった、つまりは彼女にとって彼はそれだけのものだったというだけだから。この地面に伏した男は、彼女に勝つことすら不可能だと言い切る代物だった。

 賢者はそれを自覚して言っていた。だから今の彼の表情も彼女の勝利の美酒と変わらない。
 だからこそ彼女はさらにその酒を楽しむための復讐を用意する。同じ屑だ、同類が何をされて嫌がるかぐらいだ予想がついてしかるべきものなのだ。優しく彼の頬を一度なでる、ただそれだけだと言うのに体が腐り落ちるような気が彼はした。

「だから私に謝罪をしてください。最低限の罪滅ぼしに」

 ダンと断頭台が彼の首に振り落とされる。首が転がり体と頭が一生の別れを行なう。
 頭はただ熱く、体はただ冷たく、人間である最後の尊厳さえ奪われたのと同じだった。この都市で弱いということが罪であったのなら、それは謝罪する必要など無いことだ。彼はここに謝罪する謂れなどな一切無い。

 ようやく彼は理解した、この賢者は何一つ許していない事を、聖母の怒りとはここまで劣悪なものとようやく理解させられた。
 感情の動きで人を見るのではない、この女は徹底的に彼を屈服させる為に理性を用意した。一瞬心が本当に折れるかと思った、こういう報復もあるという事実を彼は始めて認識した。

 屈辱なんて代物じゃない、その一言が死刑宣告よりも人道的に下劣だった。

 どこからが群集がわらわらと集まり彼を抑え付ける。一度折れた心が捻じ曲がる、必死に抗ってみたが数の暴力には勝てず地面に彼を叩きつけ謝罪を要求される。間接を固めた腕がそのままへし折られる、胃液を撒き散らしそうな吐き気と痛みが目の前を白くした。けれどそのたびに彼女は傷を治す、そして折られる、その繰り返しが少しばかり続いた。
 痛みになら慣れている、目の前の女の息子がそれを経験させた。断続的に続く暴力はそれだけで集団の熱気を強める、ただその光景を見ていたルッスだけは別だった。

 ただ一人この集団に殺されつくしている男の仲間として存在している男だ。四法まで使って彼を手に入れたのだ、その理由は全て自分を英雄にするため。たった一人の英雄殺しを捕まえる為に、ただ最善を尽くしたのだ。
 その全ては賢者に対する嫌がらせのため、それだけの為に彼はルッスを英雄に仕立て上げた。

「お願いです謝罪を、お願いですから謝罪を」

 また一つ腕が折れた、もう一つ骨が、もう二つ骨が、呻き声だけが響いて楽しそうだ。誰も疑問に思わないのだろうか謝罪を求める女が、暴力を肯定しているその姿を、ただ一人だけ暴力の呑まれず見るものがいた。

 ルッスである。

 それは冷静な彼から見れば悪夢だった。人間の浅ましさがそこにはあったから、吐き気がしてならない、それは海晴を狙っていた人間を見ていたときから感じていた事。地獄の亡者たちはと言うのはこういうものだろう、賢者と言う免罪符があるからこそ、いくらでも暴力的になれる。だが彼だけは違う、ただ一人彼に仲間となった人間だ。

 全ての人間が行っている事は、謝罪を要求する術ではないのだ。今の惨劇は、集団の暴力が単体に振るわれる光景、それは餌をばら撒いて集まる鯉の食欲にもにている。
 暴力に酔った彼らは、人形を弄ぶ子供のような無邪気さで、彼は簡単に壊していく。口からは泡を吐き、胃液ごと吐き散らかしその上に彼は叩きつけられた。死なないだけの暴力、それはマイゼミに与えられた拷問と同じだ。

 生きているだけになってしまう。

 謝罪を要求する優しい慈母の笑みが一人の罪人を殺す。ルッスはただその光景を見るだけだ、これが英雄の今の姿であると、この世界のもう一つの局面を彼は見てしまった。狂う、これは正気を失って当然だ、一人でこの暴威を受け止めていたのだこの男は、しかもこれに敵対しようとするその姿さえもルッスは起こりえない現象のように見えた。

 負けている、ここまで完膚なきまでに負ける男はそうはいない。奴隷に裏切られ、同じ都市の人間に裏切られる、雇っていた人間にさえ、まるで病気のようだ。悪い病気をこの都市が患っているようなそんな気さえする。その病気はどちらだ、海晴か賢者かそんな事誰にだって分かる、今敗北に地を伏す男だ。彼がこの都市に恨みと言う病気をねじ込んだ、それが今の暴力に繋がっている。

 彼は毒だ、生きているだけで人に迷惑をかけつくす。いるだけで迷惑な人間、それが甘里海晴だ。
 それでもこれは気が狂っている。ただ一人の人間にするべき行為ではない、しかもこれから彼はさらに地獄を続けなくてはならない。手が震えるルッスは自分が彼をここに落としたのだ理解している、この断頭台の刃を彼が振り下ろしたのだ。

 ただ答えるべき言葉も無く、彼はもらうものだけもらうと全てを見ないように自分の作り出した地獄から逃げ出した。

「謝罪をしてくれないのでしょうか」

 最後通告のように彼女の声が海晴に響く。それと同時にユーキルの姿がどこからか現れた。
 多分彼の家に報復に来た暴徒の一人が少女を連れてきたのだろう。彼女は奴隷にして傷持ち、人間ではないのだ。彼女の姿を見た時、海晴の目は嫌でも見開かれた。

 悲鳴も無い、意識も無い、ただ言葉も無い。ただ漠然とした嘆きがあるだけだ。

「あ、…………あ、こ、こ……と」

 ただその姿を見て彼はまた意識を取り戻したというだけ。
 彼を癒そうと倫理法を起動させた賢者に向けて、溜まった血を吐き、掠れていた咽喉に対して強引に癒しを与えさせた。

「阿婆擦れ、お前に誰が謝罪するか。この世界に俺が謝罪するべき相手は三人しかいない、お前はその一人じゃ断じてないんだよ」

 ベキベキとへし折れる骨に苦悶の声が吐き出されるが、賢者の表層は変わらない。その代わりに周りの殺意が膨れ上がっただけだ、喋れるようになったって変わりはしない状況だ。そんな事分かっていても彼は、屈服なんて絶対にしない、この程度で折れる心ではもう無い。何度も折れた心はそれぐらいの事を許してくれる。
 誰もかもがそんな事をよやく理解する、こいつは痛みで屈服する事の無い男だと。なら心を折ればいいだけの話になるのだ。

 もっと弱いものに、彼より痛みに弱いものに、それはただ一人だ。ぐるりと群集はユーキルを視界に納める、それが彼の感情を呼び起こす生贄だ。心を殺すつもりで心を一つ芽生えさせる。だがさも当然のようにその悲劇を止め様と賢者は彼に優しき願うのだろう。断るとわかっておきながら。

「お願いです謝罪を、謝罪をしてください」

 脅し、満面の笑みで一人を殺す。それは人間じゃないから、人間であるはずが無いから。
 ただ槍を少女の股に添える。何をしたいか嫌でも理解する。ただ英雄殺しの懐にいたものに容赦するような世界じゃないし、やめろといって止まるものでもない。謝罪一つで救われるような命じゃないのだ。拒絶であろうと、肯定であろうと、暴力の熱病に浮かされたものたちは彼女を殺す。

 どれだけ正気をなくしても、もう彼は諦めていた。その目の前の少女の命を、今の自分には彼女を救えないことを理解していた。

 だから彼は見捨てる、救えないことを自分の無力を、全部理解してその上で受け止める。
 彼に出来る事など今はない、何一つ救えないのだ彼は、全てを奪うことが出来たとしても。それ以外のことしか彼は出来ないし許されない。

「だからどうしたんだお前ら、自分の為だけに賢者の息子を殺して、千人以上の人間を殺したんだぞ。たかが一人でどうにかなると思っているのか、殺せさっさと俺を刺した裏切り者だ、殺せよさっさと」

 彼に言える言葉はこれしかなかった。謝罪する三人のうちの一人に対して、彼がかけられる言葉はこの程度でこれ以上は無い。
 ただ彼の言葉に怯えるように体を震わせ、男を受け入れ続けた少女は最後に槍をその受け入れてきた穴に受け入れそのまま、口から槍を突き出した。また一つ彼の世界への執着を、また断ち切る音が響いた。それは世界の断絶の音にも似て、ただ彼の心に一つ響く。

 糸が切れた。

「はははは、はははははは、ははは、くははははは、結局これか、これでおしまいか」

 その死に様を彼は見て笑った。心のうちから憎念を引き出した声が辺りに響く、その笑い一つで群集が凍りついた。

「これだ、やっぱりこうだ、結局こうなる。あっちもこっちも変わりやしない、いっつもこうだやっぱりそうだ。
 この死体の結末覚えておけ、俺は無力だ。絶対に無力だ、お前らに抵抗できる力が一切無い、賢者にだって勝てない、お前らにだって勝てやしねぇ。誰にも勝てない、勝てる奴なんか誰もいやしない。絶対だ、絶対に、絶対に、この死体を覚えていろよ、この死体を全部覚えていろ。
 これがお前の末路だ、貴様らが行なった全てを覚えてやる。絶対に忘れてやるか、殺してやる、絶対に殺してやる、今行なった全てを行ってやる。俺はお前らを生かしている理由は無い」

 一つ二つと釘が刺された、その声は群集を呪う。一度、二度、三度と、その言葉は一瞬で恐怖を作った。
 毒のように呪いが進行する。それが人間と言う名の神経に入り込んで、一瞬で病巣を作り上げた。折れた腕を揺らしながら立ち上がるその姿は、正気の沙汰ではない。唸り声のように、彼の呪いが声になって響く。

「絶対にだ、これだけは忘れるな、殺してやる。世界だろうが、なんだろうが、皆殺しにしてやる。生きているんだ死ねるだろう、生きていろ俺がここに戻ってくるまで、生きていろよ、殺してやる。殺してあげるから一人として死んでくれるな、千人じゃ足りないなら万人か、億人か、どちらにしろ殺せば良いんだろう。絶対に俺が戻ってくるまで死んでくれるな、俺からの最後のお願いだ」

 ゆっくりと頭を下げる、ある言葉を添えて、それが考えてみれば彼が始めて人に対して行なう必死のお願いであった。

「今殺してやれなくてすまない、絶対に殺してやるから生きていてください」

 謝罪をする、その全てに呪いを篭めて。そしてその願いが人間を狂わせ、限界に来た一人が狂を発するように声を上げた。武器を持っていた一人だったのだろう彼は一歩の槍を彼に投げつけた。それが腹を貫くのは容易く、それから何人もの恐怖を生み出した。たた狂気を投げるだけの動作、海晴と言う人間だけに恐怖した人間が彼を殺そうと喚いた。

 彼は無力だ、いまだ誰一人として殺せない程度には無力だった。ただその刃たちが彼の足や腕を千切れさせて彼はそのまま命が消えそうになる、そんな彼を救ったのは賢者であった。彼は死ぬ事など許されない、地獄がくる。彼にはそれしか与えられないのだ。

 死体の墓標のように、槍に突き立てられた体から呻くような呪いが零れ続ける。忘れるな、絶対に生きていてください、絶対に殺してあげますから。

「覚えていろ」

 ただ残響が呪いの音色を響かせる。
 この声が響く、ただ響くのだ、人の心の内に染み入る言葉があるとすれば、それは善意だけのものではない。悪意や呪いだってあるはずだ、世界の希望が折れる、また一つ柱が折れる。だがまだ世界も彼らも気付かない、ただ一人の敗者の刃の鋭さを、また一つ芽生えた感情の執着など、彼らからすれば些事の様に構えてしまう。

 なにより獅子の牙が彼に食い込み、聖者の浄化が彼を蝕む様な世界で、その全てをねじ伏せようと挑むのは難しい話だ。誰もそんなことできると思わない。
 最後の糸を除いた絆など彼にはもうない、仏の使わす蜘蛛の糸の意味は誰も救わないというだけの話である。救われる言葉など幸せですらない、最後の感情である喜びを手にする最後の国は、所詮彼を救うものではないのだから。

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