八章 存在自体が


 ルッスにあんな提案をしてからの彼はゆったりとしたものだった。少なくとも周りから見れば威風堂々としたものだっただろう、また組織のメンバーがいなくなった為に動き自体が緩慢になり、組織としての力は完全に失っていた。だが彼が現代から持ち寄ったアイデアを欲しがる人間はいるし、そう言った意味では経営と言う意味では特に問題はなかった。

 少なくとも奴隷二人と部下一人と自分を養えるだけの機能はしていると言う事だ。
 しかもルッスは殆ど研究ばっかりしていると言うのに動くのだからそれなりの稼ぎはしているのだろう。またこのアイデアと言うのは儲けの一分だけを三年契約でもらうと言っていただけだ。それ以降は放置してもいいのだから相手にもマイナスは殆どない。

 正直彼にそんなアイデアをもらって、成功している人間はかなり増えた。当然失敗したものもいるがそんなものから彼は金を取ろうともしなかったので評判事態は悪くない。救いもしなかったので、そういったものからは恨まれているかもしれないが、それは商売をやる上での常と言うものだ。

 ちなみにだがその契約を破った人間は、組織として力を持っていた頃は皆殺しにされ、いまは大盗賊の統治下に入っている為、そういった報復は全て彼らに任している。

 それでもまだ余裕のある資金で彼は奴隷の二人に教育を受けさせるようにしていた。どうせ彼は後半月もすれば捕まってしまうのは目に見えていたからだ、いちいち家に家庭教師を呼んで行うのだ。奴隷に大して行なう報酬にしても破格過ぎる対応だ。
 最もこれは彼らを奴隷として迎え入れた頃からやっていた事だ。彼らは本当に彼に感謝して仕事もキチンと行なっていた。だが彼は最近家に帰らなくなっていっていた。

「キルミー君に、ユーキルさん、今日も勉強を始めましょうか」

 海晴が選んだ男は、彼と同じく昔学園にいた男だ。彼の先輩に当たるが、この教師もまた傷持ちでありその事により差別を受けていた。彼のいた時期は丁度、戦争が始まるか始まらないかの第一異端狩りが始まっていた頃だ。
 彼が教師の資格を持つものに金を払うから奴隷の教育をしてくれる人間を探した時、殆どの人間が断ったが、彼だけが同じく傷持ちとして放逐された後輩のためと多少割高ながら教育を施してくれると言う事だったので彼が頭を下げて頼んだのだ。

 けれど二人はどこか表情がこわばっている。比較的落ち着いた穏やかな空気を纏っている男だが、恐縮でもしているのだろう。
 教材を机に起き、当たり前の授業が黒板で置かれる。二人はこの時代では比較的高価であったノートを出すと、万年筆で黒板に書かれている石膏の文字をメモしていく。彼らはまだ文字を書けるようになって多少の計算が出来るようになった段階だ。

 教えている事はたいしたことではないが、それでも勉強は本当に彼らにとって新鮮で面白いものだった。
 粛々と進む授業は一定の緊張感を常に彼らに与えて、それはそれは真面目な生徒だっただろう。そんな生徒に彼は本当に、本当に、教育と言う分野についてよかったと思っていた。

 けれどそんな時の話だ、異端狩りが始まり彼らの両親から兄妹にいたる全ての家族が殺されたと言う情報が入ってきた。
 それは彼にとっては、いやこれは一種の人種問題だ、原因の傷持ちはそこでのうのうと生きている。奴隷が満足に教育を受けている、その金で自分が生かしてもらっている。かつかつと黒板に書き込む石膏の字が自然と強くなっていくのは仕方のない事かもしれない。

 けれど彼だって愚かじゃない、英雄の息子を殺し四法まで持つ男を殺せるわけがないことぐらい理解している。実際は結構簡単に殺せるのだが、彼は四法の使い手がどれほど最悪な存在かをその目で見ている世代だ。自然災害と戦うのは馬鹿らしいと思うのは当然の話だ。

「さて今日の授業はここまでだ。だが授業料はとらないが追加講義をしてもよろしいだろうか?」

 学ぶ楽しさを知った彼らは、首を上下にぶんぶんと振る。最近主人も二日ぐらい家を空けるのは当たり前のこととなっている。仕事自体は午前中で終わるのだ、それに海晴から教育はキチンと受けろと言われている建前がある。
 人間が直接たたかって勝てない人間を滅ぶす方法はいくらでもある。その具体例は色々あれど絡めて以外にあるはずもない。

 人の恨みと言うのは常に向けやすい方向に向けられるものだ。言い換えれば自分より立場弱いものに、その典型であるのがこういった復讐だ。彼が恨むべきは国でなくてはならない、だがそうならないのが人間だ。もっと身近で恨みいやすい人間を選んでしまう。

「といっても最近の政治事情だ。少し難しいかもしれないけどよく聞いておくんだよ」

 二人して「はい」と、聞いている方も気分のよい返事が響いた。彼はその言葉に満足すると、黒板にあることを書き始めた。

「君のご主人様の事だ。彼は傷持ちで英雄殺しである、かれはあの部族戦争の後ふらりと獅子の国の学園で勉学に励んでいたらしい。最も成績はあまりいいとは言いがたいものだったらしいがね。最初は字もかけなかったらしいが、一時期学園主席にさえなったんだ。
 最も貴族のやっかみの所為で落ちてしまったようだけどね。だが彼はこれから悲劇を生み出し続けるんだよ、私達傷持ちに対して。
 彼の暴走はそこから始まる。いいかい傷持ちたちを恨み始めたんだよ、そして貴族たちを、マイゼミと言う名の大英雄の息子を殺した彼は、その日のうちに我らの家族ごと都市を焼き払う。その被害は千を超えてしまっているんだ」

 知っている事実を少しずつ脚色を彩り始めていた。彼自身さえこんなことをして何が起きるかなんてわからない。
 だがこうやって広めるだけで、彼は仲間にさえなりえる傷持ちさえ敵に廻してしまうのは確実だ。この男に出来る復讐はこのぐらいなのだ、何処まで言っても自分の命が惜しい男は、自分の感情を最低限満足するために言葉を紡ぐ。

「彼は、賢者を挑発して我ら傷持ちの根絶を命令させた。君達もあの獅子の国の出身だろう。そして大人は殺され、子供はお前らみたいな奴隷になるんだ、君たちもあの傷持ちたちの地獄は見たはずだ。
 暴徒となった民衆が、我らの父、母を鈍器で殴りつけなが路上に晒し、十字架の括りつけ焼き払われた絶叫をさも自分達が英雄になったかのように詠うあの悲劇を見ただろう。子供であろうが強姦の末ころされた女の末路を君の妹だって奴隷になったほどだ、その程度のことは経験しているだろう」

 できるだけ優しく笑いかけているようだが、彼の心からにじみ出る怒りと復讐心は、惨めながらにあふれ出している。
 二人もそんな経験当然のようにやられていた。実際彼らを奴隷として買う人間は、そう言う趣味で意外そう多いものではない。

「君らの幸せはそうやって砕かれたんだ。分かるだろう、君達のご主人様こそが君達をそこまで追い詰めた。
 その罪滅ぼしだろうね君たちや私を助ける事によって、今死んでいる六万五千の傷持ちたちの代償としているのだよ。正直に言えば私はこの男が嫌いだ、胸焼けがするほど嫌いだ、殺してやりたいほど嫌いだ、けれど彼のお陰でこの都市に響かせてもらい、今の地位につけてもらってもだ」

 汚濁があふれ出した。今彼がするべき表情が現れたのだ。
 黒板を叩きつけて涙を溢れさせた慟哭が悲鳴を上げる。体を震わせて、その教師の変貌に恐怖さえ抱く、一つの呼吸が声の中に彼らは囚われていく。
 二人はただ体を抱き合わせてその狂気を覗く、どこか共感できるその事実をつきつけられてその事実に犯される。

「なぁそう言うことなんだよ、私は憎い敵に救われているのだ。とても憎い、けど恨むには大きすぎる恩だ、けれど母を犯され父を奪われ兄妹は食肉主義者どもの餌になった。この怒りは誰にやればいい、この復讐は誰にすればいいと思う」

 さあ正解が這い出る。
 その異変が起きたのは、彼らを見た教師の目だろう。ぐるりとあらゆるものが歪み消え果る。次の動作に彼が移ったときはもはや悲劇以外の始まりなどなかった。体格にして四倍近い男の蹴りを子供が受ければどうなるか、よく打撲良くて悪くて内臓破裂だってありえることだ。あまりにあっけなく彼女を抱いていた兄の姿は消えうせた。壁に打ち付けられて惨めな呻き声を晒しているだけだ。

「そうだよ、君達だ。下劣な殺戮者の庇護者、そう君達だ、我らの仇に媚び諂う貴様らだ」

 再度兄の腹をけりつける、口から血が溢れ確実に内臓に何かしらのダメージを追ったことを刻む。どんなものがみても命の棄権さえあるのは確実だった、妹は一気に顔を青くさせて歩みよるが、裏拳気味になぎ払われた腕に彼女は転がり黒板を倒しながら床に転がる。

「あの化け物に媚を売って満足な生活を受ける貴様らだ。絶対に許さん、お前らのような奴隷風情が生き延びて我らの父や母が殺される理由などありはしない」

 弱いものに行く様になっているのだ。人の負の感情は常に弱いものに向けられる。
 常にだ、何処まで言っても弱いものの所為にする。その果てが自殺だ、最も弱い自分に最後に降りかかる。けれどここでは発散するべき敵がいた、自分より弱いものがここにいるのだ。

 彼の庇護下にある奴隷達、自分の父や母よりも汚らしい身分で、教育を受ける事も命の恐怖すらもないのだ。

「やめて、お願いだから。お兄ちゃんを殺さないで」

 悲鳴のような声を発するが、意味などありはしない。椅子で殴りつけても何をして男は兄に対する暴力をやめないのだ。ただの一撃の拳が彼女を思考停止にすら陥らせる。

「お願いですよ。少し黙っていてくれませんか、折角殺さないでいるのに殺してしまいそうになるじゃないですか」
  
 一重二重と、暴力が積み重なってゆく。やめてと叫ぶ少女の力のなんと少ない事だろうか、振り払う事も許されずに何度も何度も兄は蹴り殺されようとしている。
 それは彼女の全てを奪った暴力の狂気、伝染した怒りが人をただの獣に塗り替える。二度ほど骨の折れる音が響いて兄の呻き声だけが響くようになった時には、教師は肩を動かし息を荒く吐きながら少女に目を向ける。
 昂ぶりを抑えるような息は興奮に染まっていった。

 最早復讐と言うよりはただ狂っているだけだ。
 逃げようとする少女の腕を掴みそのまま壁に投げつける、酷い音を響かせながら彼女はまた壁に叩きつけられた。衝撃が体を突き抜けその場で反吐を吐き散らかす。それが咽喉に絡み酷い咳しはじめる。それは呼吸さえし辛いだろう、その場で痙攣しながら兄の名前を叫んだ。

 けれど指をひとつたりとも動かすことのない彼女の兄は、まだ幸せだったかもしれない。

 それは今までやさしいと思っていた人間の皮を被った悪夢だった。人に幻想を抱いたそれが地獄だったのかもしれない、彼女はその目を見て恐怖じゃなく既視感を覚える。いや体がそれを呼び起こした。正直な話をすればこれから起こることは、悲劇でしかないしかもそれはこの世界では極日常的な。

 可哀想だねの一言で済ませる事ができる。

 咽喉の奥から裂ける様な悲鳴が響く、けれどこの都市の中では当たり前のことなのだろう。誰一人助けない、起きたとしてもそれは彼女達が弱いから、弱いということが罪である世界において弱かった彼女が達が悪いのだ。
 男の力で強引に押し倒された彼女を床に押し付けられる。暴れる事さえも無意味な暴力の差が、彼女の背中に恐怖をねじ込み屈服させる。

 折角与えられた服は引き剥がされる、這いずる舌に嫌悪感を催しながらそれが許されない。彼女が感じていようがいまいがその程度の話はどうでもいいのだ、ただ自分が満足するためのそれは復讐。懐に忍ばせた短刀、濡れた様に淡く輝く光に彼女の恐怖は摩り下ろされていく、だが刃の恐怖によって暴れる事は許されなかった。

 強引に押さえられてまとめられていた手に短刀が振り下ろされる。両手をまとめて貫いた彼女は音さえ出せない悲鳴に狂うような響をさせた。

 同時に彼女の抵抗は消える。その痛みと暴力に心が屈してしまう、咽喉元から吐き出される悲劇は男にとっての復讐劇だ。抵抗など許されないいくら彼女に欲望を巻いたところで変わらない。白目をむいて泣き叫んでいた少女は、いまやただの暴力の末路と成り果てている。
 男に喜ばれるように鍛えられていた奴隷は、いやでも男に反応してしまう。それが彼女をより一層傷つけ心を壊す、ただ彼女の理性を守り続けているのはいまだに呼吸がある兄、彼がいるからこそ彼女はまだ正気でいられた。それこそが彼女の心をさらに傷つけているのだが、だからこそ彼女は心を持ち続けてしまう。

 心が一つ折れれば幸せだった、けれど生きている兄の為に正気を守り続ける。それは拷問のような時間、人の心があることが幸せで無い時だってあるのだ。

 救いなど望まないほうが幸せである。それこそがこの世界の地獄の片鱗、蹂躙が似合うその地獄の中、撒き散らされた欲望が彼女の全てを傷つき苛み続けるのだ。終わる事などない、彼女の心が折れようが終わらない、誰一人それを終わらせる力など無い、勇者にさえその力は与えられていなかった。
 粘性の音が響くその中で、微かに濡れた声を吐き出す少女と獣に支配されたような男の声、夜を経てそれは行なわれ続けた。

 男の興奮が冷めた頃、短刀を彼女の腕から抜いて家から逃げ出すように消え去った。

「これが復讐だ、裏切り者め死んでしまえ」

 そう言葉を残して男は消える。予想以上に彼女の心を傷つけた、ただ自分は買われただけなのだ。
 だと言うのに兄はもう微かな息しか漏らさない。急いで駆け寄りたくても、彼女の体力はすでに無い襲い掛かる睡魔に彼女は抗い続け、兄に擦り寄る。

 どうみても彼女の兄はそこで終りだった。呼吸はもう耳を澄まして風の音に押し流され、鳥の音色に脅かされる。ただ唯一の肉親が彼女の手から零れ落ちつつあった、どれだけ手を伸ばしてもそれは変わらない。

「お兄ちゃん、ねぇ、ねぇ、お願いだから一人しないで」

 ただ声はかすれて届かない。何一つ届かない。かすれた咽喉に幼い願いが響くが届かない。なんど悲鳴のように願いを紡いでも届かない。
 全て彼女の願いは届かない。どれだけの純粋な願いも届かない。全て届かない。

 ただ抜けた空洞の音が彼女の耳に届くだけだ。

 兄に抱きつき涙を流し続ける少女。自分が傷持ちだから、自分が悪魔の血を引くから、だから神の祝福も無くあの狂人に連れてこられた。まだ息のある兄を必死に抱きしめながら時間が巻き戻る奇跡を願う。しかし神は祝福を与えない、悪魔になど神に光が降りてくる事は無い。
 巻き戻る時間を願いながら、彼女の兄はひたすらに死んで行く。それはただの八つ当たり、復讐できない者の復讐の刃が降りかかった悲劇。
 
 憎むべき相手はただ一人であった。呪うべき相手は一人だけであった。

 けれどずれた歯車が戻る事など起こりえない話。かすれた音さえ響かなくなる、ただ最後に涙を流す妹の頬をぬぐって、微笑みかける。その力はただ一度の心の安息を与え、彼女の生涯の奈落に叩き落す。どれだけ肉親を心に思っても言葉にしなければ伝わらない事もある、ただ最後の一抹の優しさと言う名の自己満足が、これから先の彼女を絶望に叩き落した。

「え、おにい……ちゃ、……ん」

 これを見ていれば一つまた悲劇が生まれた事知っただろう。
 彼女の全てを保っていた一つの意図が腐り落ちる。垂らされていた蜘蛛の糸破滅を迎えるのだ。

 どれだけ叫んだ声も世界に食われて散り果てる。それは世界が悪いのか、人が悪いのかなんていう話じゃない。強いてあげるなら生きている事が悪いだけの話だ。嘆きの声が彼女の心に一つを刻む。やはりそれも復讐、人間の原動なんて物はその程度で十分稼動すると言う証明皮肉のようだ
 泣き声が咽喉から血がこぼれるまで流れ続ける。求まる理性すら失った獣が一人また生まれたのだ。

 久しぶりに海晴が帰ってきたのはそれから一時間後のことだ、荒れた家を見て驚いた。それだけじゃない兄の屍に涙する彼女を見てここで悲劇があったことだけは理解した。

「何がおきたかなんて聞かなくても、大体分かるただその上で聞く。それはあの俺の雇った教師の所為か」

 だが彼の声は彼女の空ろな目に何も届く事は無かった。犯されたままの姿で死体を抱いたままほうけるその姿は、どう思考したところで自分が原因にしかなりえない。
 この二人が恨まれる理由などそのぐらいしか思いつかない。それ以外はただの強盗であるだけだ、けれどどう考えてもその線は無いのだ。この歳で彼と本気で敵対したい人間は大盗賊だっていない。
 それ相応の実力を見せている、ハッタリだろうがそれは事実だ。今組織として弱体化していてなおそう言う人間がいないのはそれなりの理由がある。

 何も反応しない少女はただぼんやりと彼をのぞき見るだけだ。否定の声は無いそれが彼の心に一つの棘を突き刺す。
 得になんて事の無い悲劇だ、だがそれは彼の全てを終わらせる引き金となったルッコラの時の情景に写る。ただ違うのは今回は逆恨みではなく彼から派生した憎しみである事だけだ。だから一層心に深く刺さる、人間がこうやって壊れるのは自分以来久しぶりの事だ。

「分かった、お前が終わったのは分かったから。そいつを埋めてやるぞ」
「いや」

 自分の罪業が襲い掛かる、彼自身が作り上げた地獄の結果がここにある悲劇だ。皮肉すぎるのはこちら側か、折角の行為は全て真逆の方向に進むのだ、奴隷に教育をさせたのはただの善意だ。家庭教師を雇ったのは、学校であれば奴隷と言う身分が彼らをいじめの対象にさせると思ったから。
 それでも無駄だった、これほどの無力感はさすがの彼も久しぶりだっただろう。軽く自嘲するように彼は溜息を吐いた、また一つ失敗したとかけ落ちた心に一つ罪悪と言う感情が芽生える。

「もう全くの裏目だなすまなかった。俺のしでかした事が失敗だ」

 どう在っても世界は彼の全てを否定する。泣きそうになるぐらいに心を潰す痛みが刻まれた。
 ただ彼の反応を諦観の目で覗きながら、一つ一つの言動を吸収していく。彼女は彼の言葉を聞いていた。

「じゃあ返してください。お兄ちゃんを返して下さいご主人様」

 あなたの失敗なら兄を返せと、私の一人の肉親を返せと、敵意だけが滲む瞳は彼を抉る。
 何度も刻みつけるのはあくまで棘と刃、ずきずきと痛むその痛みにもだえ苦しみそうになる。差し伸べようとする手は全て彼女に瞳が切り落とす。

 途中で止まる手を彼女は睨み付け続ける。

「無理だ、無理に決まってるだろう。死んだ奴を生き返らせたかったら、魔導機しかないしかも王法の魔導機なら可能性はあるが、そんな魔導機まだ見つかっていない」
「だってご主人様の所為で死んだんです。あなたが生き返らせてくれなかったら、どうすればいいか分かってるでしょう返して下さい」

 どんどんと胸を殴りつける、吐き気がするような傷が広がり続ける。
 心が痛いなんて初めてだった、こんな痛みなんて耐え切れない悲鳴を上げそうだった。

「あなたが死ねばよかった、生きて意味なんて無いくせに、生きてる価値なんて無いくせに」

 彼女が崩れ落ち、彼もまた崩れ落ちそうになる。ただ、ただ、ある一つの原動力がそれでも彼女に無くて彼にあった。
 その醜く燻る吐き気のするような怒りが、崩れ落ちようとする彼をどうあってもたたせ続ける。それが彼女には癇に障るのだ、彼だけがどれだけ圧し折れても立ち上がっていく。折れた彼女はそれさえ出来ないと言うのに何度も怒り投げつける。
  
「そうかもしれない。けどな、まだまだ生きないと行けないんだよ。どれだけ恨まれてもそこだけは曲げられない」

 何で生きているか分らないからまだ死ねない。どれだけ苦しもうとそこだけは譲れなかった、抗いの牙が引きちぎれるように大きな口をあける。
 今更一つの恨みでは止まらない、そんな恨みの重みで潰れる事さえなく歩くには少しばかり足りないし、なにより彼が抱えている犠牲は更に深く重い。

「だから謝罪なんてしない、するのは後悔と失敗だけだ」
「あなたは」

 鋭い声、けれど彼は最早とまることが無い。止まれない、あの時外に出てしまったときから彼は変わってしまった、吐き出された憎悪は世界さえ焼き尽くすように燃える。
 幸せとは程遠い、ただひたすらの憎しみが彼の内にはある。

「たかが悲劇の為に泣いてやれない、たかがお前の為に死ぬほど優しくない」

 だからどれだけ死体を積んでも彼は許せない、心が痛んでも目の前に悲劇が彼の心を貫いても。一つの思いが彼の全てだ、自分の事もできない男が、自分の為に動いているその意思、どれほど傷ついても傷ついていないと思い込み家族に奉仕し続けた彼の心は変わらない。一度心に決めてしまった彼の意思はどれほどの悪夢が襲っても変わらない。痛みを知っても変えられない、だから悲劇が相成るのだ。

「なんで、なんで、なんでなんです。あなたの悲劇が私達を作って、今こんな事にしたのに」
「死ねない、死ねないんだ、どれだけそう願われて恨まれても、どれだけお前が俺を殺したくても死ねない。死んでたまるか俺はまだ生きているんだ」

 見苦しいまでの彼の感情、気持ち悪いと誰かが叫ぶ、惨めだと誰もが侮蔑する。
 それでもだ、死にたく無い。理由なんて何一つ無いけれど、彼は死にたくなかった、どれだけ言い張ってもそれだけは変わらない。彼の意地だそれだけは彼の意地だった、あの時言われた言葉なぜか、彼の心に深く刺さったままだ。

 マイゼミの言葉、いまだになぜ答えられないのかわらない。

「目的なんて無いくせに、なんでなんでそこまで殺せるの」

 言いがかりの呪いの言葉全部が彼の心を削る。消えていた彼の感情が開いていく、しかし感情こそが彼を傷つけていくのだ。
 人は生きているだけでは傷つかない、感情があるから傷ついてしまう。

「さあ知らない、知ってるわけ無いだろう。勝手に死ぬんだ、本当に皆勝手に死ぬんだ」

 分るわけが無い、別に彼が殺したいと思ったのはマイゼミひとりだけだ。後は必要だから殺した、死にたいくないから殺していたら、いつの間にか自分の所為で人が勝手に死ぬようになっていた。
 それだけの話なのだ。ただの偶然だと、しかしここではあんまりな発言だった。

「偶然、ただの偶然でおにいちゃんが死んだの、返してよあなたが殺したのに」
「俺は殺してない、ただの原因なだけだ、救えなかったくせに何を言う。無力がこの都市では罪な事ぐらい分ってるだろう、どうでもいいかその家はやるよ最低限の侘びだ。好きにすればいい」

 意見など聞くはずも無い、彼はただ純粋に彼女との関係をここで断絶させる。
 その為の家だった、この中には金貨にして六千枚の金がある。これだけあれば彼女の成人になったとしてもまだ余裕があるだけの金だ。謝罪にしても十二分だろう。

 けれど、戻ってこないものが金貨六千枚と等価であるかは話は違う。
 金で解決しようとする彼の行動に少女の嘆きが殺意に変わっても悪いことなどひとつとしてない。

「あなたは」

 その声が響く、けれど彼は後ろを振り返らない。もう振り返るだけの意味も彼は無いと思っていた。
 ただその次の瞬間背中に走った痛みと、体の中が急激に燃えるように熱くなる。ただその中心だけはいくら待っても冷えたままであった。

「あなたの所為なのに、あんたの所為でお兄ちゃんが死んだのに、なんでよ。なんでなのよぉ」
「しらん、どうして俺の浅慮が原因だがそれ以上は何もしらん」

 彼の抱きつくようにへばりついた彼女の手には、彼への復讐を刻んだ一つの刃が握られていた。
 返せとただそれだけの言葉が彼の体と心を貫く。それはあまりに稚拙と言えば、稚拙な思考だけれど、彼女にとってはそれが全てだった。否定だけは出来ないその復讐、たが少女はまだ良心があった一刺しで恐怖が殺意を上回り悲鳴を上げる。

「いてぇ、けど死にたく無いなぁ。絶対に死にたく無い、何で死ななくちゃいけないんだ、まだ何もしてないのに」

 まだ刺されたぐらいじゃ死なない、ただまだ信用の出来る相手がいる会社に彼は足を向ける。体を引きずるようにして歩きながら、ゆっくりと歩き出す。痛みだけならどうにでもなる。体の痛みはもう慣れているんだから。
 ゆっくりと歩き出す、壁に縋り付きながら血まみれになって。腹から零れる血の冷たさを始めて知りながら。

 死にたく無いと泣きそうになりながら歩いていく。まだ何も成し遂げていない、まだこれでは死ね無いと本当なら零れる涙を飲み込んで歩く意思と変える。

 けれど彼は会社になんて着く事はなかった。大通りに意識をなくして倒れる彼の姿があっただけだ。
 そしてその死体を我先にとハイエナ共が喰らいつく。彼を手に入れるだけで英雄だから、彼を手に入れるだけで金が手に入るから。大盗賊であったとしてもそればかりは否定できない。

 死体と変わらんゴミを、金にする為の道具としては、彼は最上の獲物なのだ。
 唯一つの救いがあるとするなら、それはルッスによって売られたと言う事だけだろう。だが救いはあっても慈悲などは無い、ひたすらに死なない事を願い生き足掻く彼の姿は、誰の目から見てもやはり生き汚い哀れなものであったのだ。

 最後の最後まで死にたく無いと心で嘆きながら。獣に食われるように人の中に消え去る。
 人の波に飲まれ死体を喰らわれる光景は、その人生そのものを人間に蹂躙されてきた自身の姿そのものなのかもしれない。

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