七章 お前など

 彼女は孤児だった、偶然ではあるが教会の孤児院に十歳の頃につれてこられる。
 当時の教会は異端狩りの風潮が強かったころだった。そして丁度このころから戦争の風潮が激しくなっていったのだ、元々異端狩りとは民族狩りのことであった。血統主義の強い教会は、この異端の狩り出しを始めていた。生まれた時から肌や髪を黒く染めた部族たちを、技術提供を断ったというのは所詮建前だ。
 またこの頃から教会と政治は同一のものに成っていったのもその一つの原因だろう。その戦争の準備の為に癒し手が欲しかったからこそ教会は、孤児を大量に集めりんりつかいを大量育成した。

 賢者は元々この計画の為に集められた子供であった。だがしかし彼女の倫理使いとしての才能は、歴代の最高位倫理使いさえも足元に及ばないようなそんな代物であった所為か、彼女は教会内でその力と権力を強めていく。
 元々聡明な子であったことも由来しているであろうが、この頃彼女はまさに神童といえるだけの成長をみせ歴代最高の倫理使いである称号『賢者』を与えられ、さらに教会の力は強くなりこの頃に次席教皇にまで上り詰める。当時十二歳である、そして彼女の次席教皇襲名の日に戦争は始まる。

 最初の攻撃は部族連合からだった。この当時王法以下の魔導機は全て部族連合が所有していた頃だ、通常の兵士でさえ部族連合の歩兵に劣るような装備の差があった。
 いくら相手方は魔導師や倫理使いがいないからといっても、そう言う話ではない。四法クラスの魔力持ちが賢者と魔導王だけの時代だ、この当時獅子の国は殆ど壊滅的なダメージを軍に負う事になった。

 だがどうしても、ここで簡単に負けるわけには行かない。この最前線で一躍その力を発揮していた剣人は魔力も人並みでありながら部族長ゲルゲを討ち取り四法魔導機決別を手に入れた。四法所持者が増えたことにより戦況は一時的に安定したが、それでも相手の圧倒的有利だ。敵の大部族長連中は総じて王法を持っている。討ち取るとしても破滅的な地獄を受け入れなくてはならない。

 ただ唯一救いだったのは部族連合だが、部族同士の連携は悪く王法を所持する部族長達は自分が一番上だと身内どうして下らない喧嘩をして出てこないことぐらいだろう。実際これが五年も続くと誰も予想していなかった。丁度賢者はこの頃、指揮官でありながら一時的に戦闘から離脱し外道の奥義を作ってゆく。そして彼女がいないうちに、王法救世の起動を教会及び国王が承認した。

 これが俗に呼ばれる勇者召喚の儀である。
 正しくは救世が認める使い手を魔導機自身に選ばせる儀式だ。王法とは元々存在した魔導機のオリジナルの総称でもある、この魔導機の特性は使い手を選ぶというところだ。さらにもう一つ特性がある使い手を引き寄せることだ、救世はその中でも最も使い手を選び始まりから千五百に分岐した最初の属性の中で最も強力な魔導機だ。

 ある意味これが破滅の始まりだったのかもしれない。それから十五年間彼は戦い続ける事になる。
 最初の五年彼は役立たずだった、だが剣人が死んで以来彼は変わったように強くなる。丁度この頃だ、あらゆる意味でおかしくなったのは、勇者の世話役として賢者が与えられ、最初の一年目で彼女は子供を孕んでしまう。

 これがマイゼミだ、一人孤独にうち震えた勇者は賢者と関係を持ち異世界に一つの異端児を産み落とす。最初の歯車がずれた音がした、しかしそれでも彼らは戦い続け三つの大戦を経て勇者は魔王ら部族連合の首領にして王法使いを殺すことに成功する。だがここで賢者は一つの誤算をしてしまう、救世の魔導機は望まれた奇跡を具現化してしまえば、勇者はもう要らない、救世は必要ないのだ。

 結果として魔導機は一つの決断を下す。使い手の帰還だ、全てを終えた勇者の結果はそんな話しかない。
 開かれた強制の帰還の門に、強引に引き込まれる勇者は最後まで謝っていた。

「ごめん、ごめん、俺は君といられない」
「なんで、恭介。マイゼミはどうなるの、私はどうなるの」

 それは最後の別れの時だ。必死に勇者の手を掴む彼女がいた、けれどいくら触れようとしても既に彼はこの世界には必要ない男。
 この世界に必要ない救いの意味を持たない男はそのまま最後の別れを彼女に告げた。

「全部君に頼むマイゼミのことを、全部頼んでいいかい、俺達の息子を頼む。あとごめんって言ってくれるか」

 流れる涙など意味はない、そこにいた三人はひたすらに涙を溢しながら。最後の会話を続ける、勝手に呼ばれてかってに消される、道具である勇者は頬を伝う涙だけをこの世界に残していた。それは転送と言うよりは強奪、最初に足と言う存在が持っていかれた、次は腰次は腕、支える足なんてないのに彼の体は宙に浮んでいた。

 何度も彼を引きとめようと掴む手が何度も彼から零れる。初めて出来た肉親に、初めて愛した男に、けれど届かないこの物語の結末に幸せがあったことなど一度もない。勇者はこの後召喚されたころに戻る、年齢と記憶さえもまき戻して、彼からは彼女達全てが消えるのだ。ただ何と無く感覚だけが覚えている空虚が彼を破滅させるのだが、それはここには関係ない話だ。

「くそぉ、わすれたくねぇ。お前らのこと忘れたくねぇのに、勝手に消えていくもう名前しか思い出せない、大事だった誰かだったことしか思い出せない」

 それは洗い流しているのだ、彼を元の世界には必要ない彼の全てを流し落としている。目の前にいる仲間の名前さえ思い出せない。そんな彼の最後は満面の笑みだった、一生忘れたくなかった全ての事が消えていく中、必死に彼に擦り寄る一人の女性の事が大切であったことだけは忘れられない。もう伸ばす手もない彼は最後に覚えている息子の事を想い別れの言葉を告げる。

「マイゼミを頼む、もう名前も思い出せない大切な人。忘れたくないけど消えていく、残せないんだもうそれしか君には」
「まっ……てよぉ……ぅ。一緒にいてくれるって、一緒に」
「ごめん、本当にごめん」

 その間にも全てが奪われ続ける。全てが貶められていく。彼がこの世界で積み上げた記憶を全て、この世界が奪い去るのだ。どれだけ必死に抵抗しても所詮人間が世界に敵うはずもない。
 最後の記憶が引き摺り下ろされる。それと同時に彼は、言ってはいけない言葉を発して消えた。

 その消える記憶に絶望の涙を流しながら、仲間達を見る。もう思い出せない全ての記憶が消え去った、本当ならこの前に消えていればよかったのに、だがそれでも絶望は止まらない。必死に足掻いた彼の結果だ、けれど全て結果が報われるのならこんな涙は流れない。

「あ……ここはどこ、君達誰だい?」

 その言葉を最後に彼は姿を消してしまう。カランと王法が一つ零れ落ちて、全てに絶望が響き渡った。
 だがそれで終わるはずもない、この物語はここから始まりなのだ。彼が消えた瞬間、地面に零れた王法を賢者は踏みつけた。何度もだ、容赦など一切なく。

「命を賭けた代償はこれか、私たちの出会いさえお前には」

 しかしながらそれは当たり前の話である。救世に願った優しさは絶対的な部族連合の壊滅であった、王法はそれを忠実にかなえたに過ぎない。そして迷惑をかけた勇者には、当たり前の日常を返してやる。その召喚された日に気の狂いそうなほどの屍を積み上げた勇者を日常に返してやるために。
 それだけの願いしか彼らは最初していなかった。効率のよい救済機構、望んだのはそれだけに過ぎない。

 けれど彼女は何度も踏みつける。魔導王だって止めることはない、今まで一緒に戦ってきた仲間の最後の言葉は君たち誰だいだったのだ。自分達の今まで全てを否定されたと思ってもしかたない。
  
「ねぇ、私を救ってよ。切欠でもいいから、恭介に届く光を頂戴よ、お願いだから彼の世界に行く方法を」

 何度も踏みつけながら、悲鳴を上げる。お願いした奇跡を何度も祈った、だが彼女の前に現れることは二度とない。
 それは部族連合崩壊の日、だがしかし勇者やその仲間達は祝福されるような奇跡を得ることはなかった。けれど彼らはもう英雄になってしまった、魔導王はゆっくりと彼女に近寄り肩を叩く。

「帰ろう、君にはまだマイゼミがいる。恭介との架け橋がまだ生きているじゃないか」

 彼らは栄誉を受けるだけの功績を果たした。世界が彼らを見放さないのだ、だがそれでも賢者がすがりついたのはそんな栄誉よりもマイゼミだった。仲間に差し出された手を受け入れ立ち上がる。けりつけて血にぬれた王法を持ち上げる、その武器の形の変貌は一切ない。
 そして魔王の武器の王法を奪い、彼女達はその帰路に着いた。

 彼女や魔導王はこれから三年間、本人の分野において多大なる功績を残している。それは勇者が消えた寂しさを取り戻すためだったのかもしれない、だがこれにより元々勇者や彼女が戦いで放置していたマイゼミはさらに母親である賢者との溝を深くしていった。
 そしてさらに四年近い月日がたった頃の話だ、マイゼミが殺された。それは彼女にとって想像以上の孤独だった、彼女はこれによりさらに狂うことになる。その一つの功績が異端狩り、かつての部族連合との混血などは皆殺しにされるという悲劇だ。彼女は二度も失った、その孤独と吐き出すことすら許されなかった怒りが最も弱いものに向けられたのだ。

 彼女は、孤独に対する恐怖を経験した。何度も、生まれて意識を持つようになってから孤独だった彼女は、女を売りながら次席教皇まで上り詰めた。所詮自分の体はそういった道具だと思っていたのだ。それが勇者に会うことによって、孤独から開放されてしまった。
 勇者の差し伸べた救いはいたるところに伸びている。マイゼミと言う一粒を手に彼女は孤独と言う文字から放された、けれどマイゼミが死んでまた歯車は狂う。彼女の傷は何度も抉られる、催す孤独にあらゆる恐怖が刻まれる。指先から震えて痺れる一本の痛みに彼女は息を吐き落とす。

 焼け落ちた館の地下に彼女はよく来るようになっていた。ここからは血の匂いが絶えない、戦場を経験した彼女でさえむせ返るような匂いが溢れていた、人間一人でこうなるはずはないのだ。けれど盲目になった彼女は気付いても気付かない振りをする、ただひたすらにマイゼミの仇である海晴と言う男に彼女は憎しみを向けた。それは母親としてか分からない、だが少なくとも彼女はそんな所に視点を合わせない。

 ひたすらに孤独が恐ろしかった。
 ただ自分の行動だけがこの部屋に反響し響き渡る。そのたびに自分が一人である事実を刻み付けられ、孤独が彼女の全てを終わらせる。一度でも手にした暖かさだったからこそ彼女はもう手放せなくなっていた。

 その矛先が復讐だった、けれど彼女はそれでも足りない。ひたすらに孤独が怖かった。
 もう何もないのだ、栄光なんて最初からなかった。たとえ仲間がいたとしても彼女は一人のままに過ぎない。一人だった彼女は、人にひたすらに傾倒していくようになっていた。だが彼女だって英雄と呼ばれた一人だ、そんな自分が愚かであることも知っていた。

「ごめんなさい……、ごめんなさい、みなさん。マイゼミ、ごめんなさい」

 ここでだけ彼女は泣いて謝る、殺した屍が怖かった。マイゼミが死んだことが、そして構ってやれなかったことが愚かだった、そして何より自分の心にある浅ましい感情が彼女を突き動かしていたから。それは怒りではない、ましてや憎しみでも、それは最早彼女があることをなす原動力に過ぎないのだ。

 彼女の謝罪、涙を流しながら零れる声。

 ただひたすらに満面の笑みを作り上げる一人の賢者。ただ一つの所為で全てがアンバランスに歪み果て、喜色満面の泣き声が地下牢に反響した。

 そしてそれから三日の時間が流れる。

「これ以上はやめよう、いくらなんでも今回のは暴走にしか見えない」

 賢者の新居に魔導王が来たのは、マイゼミが死んで以来であった。傷持ち狩りなどと言うことが横行していたこと自体彼は、研究に耽っていた彼には寝耳に水の話であった。偶然市井に降りたときにその話を聞いてその足で彼女の元に参上したのだが、薄ら笑いを浮かべる賢者に彼は愕然としてしまった。

「ああ、教会としても犯罪の原因である傷持ちを許すわけには行かないの」
「だがあれは恭介がやめさせたことだろう。それをお前が実行するなんておかしな話だ」
「けどね、どちらにしろ民に暴動を起こさせるわけには行かない。ならその矛先を原因である傷持ちに向けるのは当然でしょう、国で認めたほう方が治安の乱れが少なくなるじゃない」

 被害者の数だけ恨みがあるのだ、さらに今回は貴族ばかりが死んでいる。きちんとした情報はまだ流れていない今、被害者である貴族たちは情報の断片だけである身分の低いものと言うただそれだけの情報で、二等市民以下の人間に向けその怒りの矛先を向けている状態だ。すぐさまそれを開放し犯罪率の多いスラム街を狩り殺すことが彼女の考えだ。

 これは彼女のうちに秘めた、憎悪の発散と手っ取り早い治安維持に過ぎない。
 傷持ちに攻撃の矛先を向けて、仮初の治安を維持しているのだ。

 これにより単一民族化も彼女は狙っているのだろう。そうすることによって常識の差による人種問題を阻もうというのが策略だ。それと同時にスラムとは海晴をこの国に留め生かした場所。また同じようなものを出さないようにと言うただの復讐でもあった。

「そう言う問題じゃないだろう。お前ならまだマシな方法も考えられたはずだ。いまじゃもう黒狩りじゃないか、同じ人種同士ですら当たり前のように拷問して傷持ちだと言い張らせるというこの状況を俺はやめろと言っているんだ」
「無理、絶対に無理、一度動いたもの国の政策は一度決めた物を変えるのは難しいの。何しろ私が認めた手前ね、それに化け物殺しつくさないと」

 あくまで神聖に、淑女として、内に秘める最後の希望を表すこともなく政治家としての顔を作り上げる。魔導王がこんな彼女の顔を見たのは、勇者と出会う前ぐらいだっただろう。世界には自分しか居ない、自分は全てに認められるものだと思っていた当時の彼女そのままだ。
 それはあまり見たい類の知り合いの変貌ではなかった。マイゼミが死んだ事によって心を頑なにしているのかとも思ったが、少し彼女の様子もおかしい。息子が消えた時でさえこんな馬鹿げた事はしなかった。

 けれどまだ彼女の言葉はとまらない。まるで自分が行なっていることがどれほど腐った行為か理解しているようだった。

「それを否定するのは私以外じゃないといけないの、そしてその落とし前もつけなくちゃいけない。ただ英雄は穢れちゃいけないの、だってそうでしょうこの国でそれが起きるということは、恭介の望みから外れることなんだから」

 ここで英雄が嘘といえばそれだけで、この国の常識が破綻するのだ。それは魔導王が考えているよう理も被害が酷くなる。
 つまりは一つの輝かしい栄光がちにぬれ狂ったということに他ならないからだ。それは強大な力に怯える人間と化け物の構図が出来てしまう。それは幾多の物語で伝えられる英雄達の滅びの始まりだ。
 だが彼らがただでやられるタイプの人間ではない。それは彼らの望むところじゃない、勇者の言葉をいや勇者と言う存在を肯定し続けるために、この国を生かし続ける。それこそが彼らが勇者に忘れられたこの世界に勇者を残すために必要なことだと思っているからだ。

「だが、だがこれは」
「いい聞きなさい魔導王。これはどうにかしてとめないといけない、けど私は死ねないまだ死ねないの」

 いまだに顔の表情さえ変わらない女は能面のように笑みを見せた。
 この大失態をやめさせる方法は一つしかない。命と言う代償だけだ、国を納得させるだけの道具はこれしかない。ましてや暴力に塗られた人間を止めるにはそれ相応の鎮静剤しかない。

「分かっている、君はそうやって俺を殺したいだけだろう。何をするか分からないが、君のすることだ少なくとも君のためにはなるんだろう」
「ええ、救世が動き始めた。また勇者召喚の儀が近いうちに起きる。そのためなら国がどれほど混沌としても私は構わない」

 魔導王は目を見開いた、そのためなら彼女は今なんでもするだろう。最早彼女を縛るかせはなくなっていたのだ。
 彼だって死にたく無い、まだしたいことはいくらでもある。だがまた恭介に会えるかもしれないという欲望が彼のみを縛ってしまった。それは薄暗い英雄の心情ではなく人間としての彼の姿。
 あの輝かし過去を思い出し、仲間と笑いあったあの頃に戻りたいと切に願う彼の願望。

 咽喉まで、でかかった否定が一瞬で真逆に変わる。一人は愛情で、一人はただ過去のような幸せを、どれだけ血に塗れても二人は勇者を求め続ける。彼らもまた英雄信奉者であるのだ。
 剣人がいて、賢者がいて、魔導王がいて、勇者がいた、あの戦乱の次代を彼らは求めていた。
 それが勇者を呼び起こす一つの手段となるのなら、彼らは甘んじてその代価を受け取るだろう。たかが数万の人間に死に絶えたところで結局は代わらないのだ、彼らはそれ以上の死体を積み上げることの出来る存在。

 万の重みなど片手で持ち歩いてくれるだろう。今彼らはここに結託してしまうのだ、凶暴な笑みを作り上げ、ただひたすらに勇者を求めるために。
 視線同士が絡みつき否応なしの解答が肯定を導く。二人は常に飢えていた、あの勇者が消えて以来、剣人が死んで以来の、あの素晴らしき日々をもう一度と、勇者がまた来るのだ。彼らにとっての勇者は恭介以外いない、盲目的に彼らは勇者恭介を望み続ける。

「わかった、君がそう言うつもりなら僕は何も言わないしなにもしない頑張ってくれ」
「ありがとう最大の支援だわ」

 内に秘めた汚濁を二人は受け入れ薄ら笑う。一度の会釈の後、このくらい部屋から魔導王は出て行った。
 そこには若かった頃の溌剌とした魔力が溢れている。彼にとっていままでの生き方は寂しかったのだ、それでもいいとこの平和を教授しようと考えていた、けれど勇者が帰ってくるのなら話は別だ。またあの頃のような祝福が訪れるのだろうと心躍らせる。

「けどね」

 彼女は彼にさえ聞こえないように、醜く歪んだ怨念が吐き出される。それは彼女の表情に写るように、その表情を作った本人ですら否定したがるような表情に歪んだ。
 それと同時だ魔力を走らせ体を強化したのは、さらにそこから彼の完全な不意を突くように心臓をナイフに突き刺すまでの動作は。
 
 彼女は彼を刺した時全ての意味で一度だけ息を吐いた。

「え……、なぜだ…………ふぇ……る……」

 それは決別と、宣誓。彼の心臓からゆっくりと抜かれる凶器の間から血があふれ出す。それを見て満足そうに一人の女が、凶器の血をなめとった。

「だって貴方が生きてたら、勇者の復活が遅れるじゃない。貴方を代償にしてさらに加速しないと、これでもっと早くなるの」

 だから早く死ね、もう一度そう言って心臓を突き刺す。二度三度と、四度五度と、二度ほど酷い咳をして彼の息は止まった。この結末よりも後二日でも魔導王の登場が早かったら変わっていたかもしれない、しかし彼女の心は既に決まっていた。
 勇者に会いたい、恭介に会いたい、私の孤独をどうにかして欲しいと。もうそのためなら彼女は止まれなくなった、たった今殺した仲間がその証明だ。

 そしてその日、傷持ちによって魔導王が殺害されるという事件があった。その結果さらに異端狩りは度を越した悲惨な悲劇に変わり、無用な命が全て消え去っていった。それを同じくしてマイゼミを殺した男の情報が入ってくる。
 それは彼女にとって全ての歯車が上手くかみ合い彼女の為に動いているようなそんな都合のいい奇跡だった。

「待っていてね恭介」

 彼女の声が死体を震わせるように零れでた。どれだけ涙を流しても、それだけ体をその自分の浅ましさに震わせたとしても、最早自分の欲望から逃れる術などはなかった。
 英雄はいま穢れる、ずれた歯車は一度として治ることを許さない。動いているものを治すことなど至難の業だ。

 今、三日月の喜悦が空に浮んだ。

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