三章 楽園偽典


 半年が過ぎた。一言で言えばそれだけの話、だが表現すれば山のように地獄が降り落ちる。
 男に犯されるようになって、海晴と言う人間を徹底的に存在を嬲り殺していた時間だ。地獄のようだ、心を折られるのは当たり前の世界。人間は痛みに弱い、痛覚はそれだけで十二分に人の精神を犯しつくす。
 屈辱よりもそちらのほうが苦しい、痛み一つで人間は狂うことさえ出来る。だがもしその地獄の中でさえ消える事の無い感情があるとするならそれは屈服の感情と諦めだけだろう。

 実際死にたいだろう、どれだけ殺されるにしてもこれほど容赦なく何度も体を切り刻まれ、摩り下ろされて。挙句が人間どころか子供の解剖道具、そして終にはダッチワイフと来た。こんな屈辱を味わって生きていたい人間はいない、それ以前に痛みで死ぬ。魔法と言う容赦の無い現実が、彼の心の希望を殺し続けていた。舌を噛み切ろうというときもあったし実際に実行もした。
 だがその程度じゃ魔法は、彼の生存を許してしまう。何度も試した、だが賢者の家にいる魔法使い達は熟達した者ばかりだ。
 絶対に拷問のときにはいないが、彼が死を許されることは断じて無かった。

 今日も今日とて穴を掘られる生活と言うだけだ。
 マイゼミの拷問は日増しにその非道を上げていく、魔法は即死以外全てを救う。即死以外で死ねる方法が無い、神様に自分の死を請い願う。望みを歌い声を上げなら殺してくれと叫ぶ。だがその全てが無意味なのだ。

 それは絶望を叫び上げるための人間賛歌、素晴らしき人生の終りを望むような物だ。
 そんなもの彼には提供される事すら、ないんじゃないだろうか。世の中にそんな救いを願い叫ぶと言うこと自体、殺してくれと叫んでいるだけの話。だがいま海晴は殺されかけ、生かされつくす。

 救いを求めた悲鳴は地下から外に出ることは無い。もしこの時に救いがあれば、この世界は後に彼によってあんな事には成り得なかったと言うのに、今日もまた悲鳴あが上がり、手から救いは零れ落ちる。
 
「あ……ぅ、へぃ……ぁ、ううぇ」

 言葉は紡げない、これがまさか殺してくれだとは誰も思わないだろう。魔法はただひたすらに万能を極めた、科学を追及した現代では想像もできない奇跡が当たり前のように乱立する。目を焼き鏝で潰される、それが治るとしたらどうだろう。そんな拷問が日常茶飯事で、それが当たり前なら。

 いつの間にか狂った。
 いつの間にか壊れた。

 いくら何をしても生きていけないのだ。あるのは痛みと苦痛、そして痛みに折られる心。

「なぁ、筆なし。お前なんで死なないの」

 ふと笑うようにマイゼミは彼に問う。それはいつの頃からだろう、当たり前のように彼は聞いてきた。 
 感情も無く何か試すように、だが彼が喋れるわけが無い。直されていた喉はまた切り裂かれ声帯自体を破壊されている。マイゼミは彼の反応を見て楽しむだけだ、自分が徹底的に生かしている。
 
「俺が殺さないだけだけど。いいだろう、折角お前をここまで愛しているんだ」

 聞こえない声が耳の空洞に反響する。だがこの時だけはなぜかその音が彼の声が響いた。

 ふと彼の目が開いた、ぼんやりと空を覗くはずのその目が、マイゼミを捕らえる。この世界の人間は、日本人のような目の色をした存在はまずいない、目を覗くだけで黒曜石のような色を放つ瞳は、ぼんやりとだが確実に目の前の男に写す。それは彼のような宗教観をした人間からすれば悪魔の魔眼だ。実際に彼は何度この目を抉られて、焼き潰された。

 枯れた声からはまともに呼吸さえ出来ていないことを教えていたと言うのに、必死に海晴は口を動かしていた。

 だが今までと、どう考えても少し彼の反応が違った。マイゼミと顔を合わすことなんて海晴は一度たりともしなかった。
 その瞬間、よりにもよって感じるはずの無い一つの感情が彼に湧いた。楽園と呼ばれる獅子の鬣と呼ばれる国にこんな目をした人間はいないだろう、いるのなら奴隷、いるのなら浮浪者、もっと言うのなら死んだ英雄の一人ぐらいだろう。

 今はその感情をとやかく言うところではない。
 だがマイゼミはそれが気になった、それは彼が見たことの無い目だったから。一瞬の脳から走り脊髄を駆け抜ける一瞬の震えを体中に与えて、よりにもよってそれが彼に一番の魅力を与えてしまった事だろう。
 興奮にあらゆる物がそそり立つ、こんな興奮彼は味わった事さえなかったと思うよう。そうなってからの彼の行動は、恐ろしいぐらいに早かった。首を掴み地面に叩きつける。と言うよりそれは押し倒すに近かった、後は強引に唇を合わせてそこから強引に蘇生魔法を使った。

「なんなんだ。 なんなんだ今のは、筆なしなぜそんな目を俺に向ける」

 自分の潰した喉から声が聞きたかったから。その体を完全に再構成させるに到った、だが海晴は彼を同じ目で見るだけだ。

「教えろ。 なんだそれは、俺に対してそんな拒絶をなぜ向ける」
「あ、え、あ……、うぅ。げ、ごほ、ごほ、う……、ああ、喉がう……」

 その瞬間彼は殴り飛ばされた。喉の調整さえまともにさせてもらえないことに、彼は不愉快そうな顔見せた。喚き散らかす男を見て彼は優しそうに笑った、少しの時間をかけて動くというその成れない行動を補強するために。
 魔法があれば瞬時にマイゼミは彼を拘束できる。それを確信している彼は、深く目の前を連鎖させて動かす。楽園地獄は始まる、彼はそれこそ可憐な乙女のように、芍薬のような笑みをこぼす。それは散り行くものの美しさだろう、終末美を体に纏わせれば一瞬にして触れてはならない禁忌のように感じる。
 それが自分に向けられたものだとしたら、一瞬だけだか確かにマイゼミの心に湧いたのは歓喜だった。

 そっと顔に手を伸ばす、海晴は始めて自分から彼に手を触れた瞬間であった。それに喜ばないマイゼミじゃない、ただ頬を興奮で赤らめて、ぼんやりと彼を見ていた。

「このためだ」

 その手が彼の目を突き抜けるその一瞬までは、痛みに対して耐性のあるわけの無いマイゼミは首絞めたような奇声を上げてのた打ち回る。
 今までの行為全てを彼はここ返される事になる。魔法の構成など出来るはずも無い、息をするのと同じくらい容易いはずの構成が全て消え去る。痛みはそれを許さない、ただ悲鳴を上げるようにその場でのた打ち回る。

 それからは報復でしかない、目を抜けば喉を殴りつければ。後は止まる事に知らない殴殺、ただそこで気味が悪かったのは彼は笑いもしなければ叫びもしない純粋に殺すからだ。今までの累積した殺意はただ殺すことだけを考えて殴りつける、ここまで容赦なく殴られれば構成どころの騒ぎじゃない。下は硬い石畳、そんなところで殴りつけられれば、前と後ろで痛みが襲う。

「なんでだ、なぜ、なぜ」

 痛みのあまり冷静になったのかもしれない。ただ何度も反復するように、マイゼミは言葉をつむぎ続けていく。けれ聞こえるはずも無い、海晴は既に彼の言葉を耳に入れるつもりも無いのだ。

 そして結果として屠殺される豚が、人間を殺した。それだけが事実になった。

 その悲鳴が消える頃には人間の形を顔は無い。自分の血かマイゼミの血か、ただ断言できるのは人間の顔と言うには形容が相応しくない。完全に骨が砕けていた、途中から殴るから頭を掴んで、叩きつけるに変わってはいたがその人間の機能を失わせるには十分な行為だった。

「なぜか、特に理由なんて無い。殺さないと行けない気がしただけだよ」

 死体に向かってポツリと呟く。恨みなんて燃え果てた、そんな感情はすでに彼の殺意の燃料になってしまった。彼に与えられた全ての屈辱を殺意に変えた彼は、その理由すら覚えていなかった。ただ純粋に殺したかった、ずっと目の前の男の存在が許せなくなっていた。

 だが別に彼はこれからのことを考えていないわけじゃない。賢者の息子を殺したのだ三年間で身についた国の動きを知っている彼は、冷静に考えても自分が吊るし上げを喰らって殺される事だけは理解していた。この殆ど三年半で彼は理解した、この世界の人間全てが敵であるということを、あいつらは彼に対して容赦する事は無い。ならばこっちもそうであると、この世界の人間にやさしさを与えるはずが無かった。

 あらゆる理解をした。理解させられた、この世界でまともに生きていくには、この世界の奴隷になるか敵になるかだけだと。

「ならもういい、もういい」

 本当にどうでもいい、思い出した激痛の過去、思い出し続けた現代の事、異世界の事、彼は生涯を経て一つの理解を得てしまう。人間は一人では生きていけないこと、そして人間は自分のためなら人間と言う犠牲が出ようと大して問題の無いことを、これなら勇者になりたかった。英雄になればこの世界の人間に否定される事はなかった、けれど彼は否定された、勇者じゃなく彼らに有益な人間でも無いから。

 そんな中ふつふつとこみ上げるものを彼は感じる。だがそれに今は身を委ねるしかなかった、少なくともこの獅子の鬣の名を持つ国を、だがどうせまた太陽門で止められる。全てが彼を邪魔する、そんな力を無効化するにはそれ以上の暴力が必要だ。
 そしてこの日、寝込みを襲われた魔法使い三十名、見張りの兵士、三百件の建物が燃える事件が起こる。
 今思えばこれが始まりだったのだろう、その地獄を起こすために一人の青年が歩き出した。百花繚乱の英雄物語の後の話、青髭の魔術師と変わらない。しかし彼とて変わったが変わらない部分もある、ただ震えたこの地下牢を出るとき自分は、きっと人を殺し始める、今から罪も無い老若男女全てを殺すだろう。現代に生きていた彼にとっては禁忌の一つ。

 けれど、同時にこの湧き上がるような殺意はどうしようもなかった。これは彼がこの世界に生まれて以来の全ての怒り、タガの外された怒りは炎と一緒だ。全てを燃やして終わるだろう。

 もう止まれない、この世界で生きていくと決めた彼は、もうこの世界で敵になる以外の選択肢を失った。炎は酸素を吸い上げより一層燃え上がる。階段を一歩一歩上がるその中で、その炎は緩やかに燃え上がっていく。切断された世界を彼はゆっくりと登っていく、久しぶりに照らされる光に彼は懐かしささえ抱いた。こつこつと歩いていく道の中で、一人確認していく。

「何でこんなことになったんだ、どこで間違ったんだよ」

 それは自分の望んだ事だ、この世界からいなくなればよかったと思った彼の思いがかなっただけ。人なんて殺したくなかった、だけど殺さなくてはいけない気がした、自分は人間として破綻しているという事を彼は否が応でも確認させられる。枯れた涙が零れていく、視界が歪んで世界が狂う、本当はそんな事したくなかった。けれど、どんななに理解しても、彼が彼に殺せといっている。

 今の歩みはまだゆっくりだ。と言うより途方にくれた迷子、この言葉は彼に似合いすぎていた。気付いたらこの世界にいた、そしていつの間にか世界に嫌われ、自分からもこの世界を嫌った。未だ生き方を考えようとしなかった子供が、ふらふらと道を歩いている。道は奈落に続いた黄泉平坂、醜女が走って襲い掛かってくる世界を彼は見ているのかもしれない。

「けど、この世界はもう俺の世界でもあるんだ。嫌われても、どう足掻いてもここでしかもう生きていけない」

 道は無くても場所はある。それは陳腐な彼の世界の歌のにもある言葉だ、もう例を挙げるのもあほらしいほどに綴られたその言葉。道は自分で作っていく、まさに今その状況に立たされる。

 しかしその道が、必ずしも優れた道で、綺麗な道であるはずが無い。幸せは不平等で、生きることは苦痛で、不幸せは体を刻み、死は優しさを与える、そんなの当たり前で苦しい事。この道を上がるとき、もう彼は止まれなくなるだろう。

「敵になるならなってやる。もう逃げていられないんだ、俺は英雄の息子を殺したんだからこの国は僕を許さない」

 最後の段を上るとき、彼は逃げる手段を失い戦う手段を欲した。
 この世界の英雄信仰を彼は理解している。実際マイゼミに賛同して彼を甚振った人間達は彼がしているから許されると錯覚していた。何よりこの世界においての英雄の活躍は凄まじかったのだろう。だからこそ英雄に対して人間が新たに信仰の対象としていたことに偽りは無い。
 神の信仰もそうだ、少なくとも現代の人間よりは宗教を信仰して、神をあがめている。それは絶対的なものではないが少しでも信仰が強ければ傷持ちの彼に容赦する事は無いんだろう。彼は身をもってそれを経験した。

 この成り立ちが彼をここまで潰した。

 ここから暴力が生まれる。この世界の人間が拒否する全てが訪れる、それはある意味世界の生み出す負の財産。それ自体の歩みと歴史が生み出した、この世界で彼しかこんな目をして生きていく事は無いのだろう。

 夜の帳が振り落ちていた、雲が全ての光を阻み雷光が先ほどは差し込んだのだろう。雨でも降っていたのか湿気た空気と匂いが彼の鼻腔を擽る。それが彼がこの世界でようやく香る、自由の始まり。怒りとは猛火、それは地獄の最終末の名、人々が気付いたときにはもう遅い。

 一人目は首を貫かれた、二人目も同じ、三人目は彼に気付くが、目を抉り出され喋るまもなく首をへし折られた。そこから血祭りだった、誰かの持っていた武器を奪い取り手伝いから門番に到る全てを皆殺しにしていく。普通であればこんなこと起きるわけが無い、複数に見つかり殺されるだけだ。ここでの救いは唯一つ、それが夜であった事。そして彼が余りにも手際よく人間を殺して言った所為だ。

 誰一人異常に気づかない、誰一人何も気付かない。気付いたときには死体を晒し、誰もが気付いたときには屋敷に火の手が上がった。

 この後、火は全てに走り出す。賢者の所有していた魔法具の誤作動だろうか、火は壊滅的なほど膨れ上がり。全てを焼き尽くし跳ね飛ばす。それは救わなかった者の代償だろうか、それとも彼がこの世界にいる事を許しはしない世界自体の暴虐だろうか。
 どちらにしろ彼の目は一生変わらない、その目を見れば誰もが彼に敵になって。結局彼は裏切られる、楽園を示す世界は灼熱地獄の門を開いた。

 彼の目を見て最初に人が思うことそれは恐怖以外だけだ。そんな代物は人間を拒絶させる最初の一歩なのだ、だがそれこそ蠢く人間と言う群体がその個を守るための最も重要な感情であるのだ。

***

「マイゼミなの……、本当に貴方がマイゼミなの!」

 獅子の鬣の名を持つ国の歴史にさえ刻まれる大火だ。その火元である賢者の屋敷の住人は確実に出火前に殺されていた、首を切り落とされたもの、心臓を抉られたもの色々いるが、一撃で即死させられていることだけは理解できた。そして賢者でも余り公にしたく無い地下牢からは頭蓋骨全てを砕かれたマイゼミが見つかる。
 母親として育成は失敗している者の彼女の愛情は本物だ。唯一地下牢にいた所為で体を炭に変えなかった彼の変わり果てた姿は、母親の彼女の目から見れば。どうしようもなく救われない代物だろう。事実を知っていれば少しは変わったのだろうが、事実を知るもの全ては彼に殺されている。

 すでに顔の形をしていない息子を抱き上げるその姿は一代英雄譚の悲劇だ。

「誰がこんな事を!」
「マイゼミ様を殺したものですか、一人だけ屋敷から逃げた傷持ちがいるそうです。詳しい情報は無いですが、おそらく傷持ちであると」

 傷持ち、その言葉を聴いたとき賢者の顔が歪んだ。
 宗教と言うのは何気に根深い、これがただの殺人犯ならきっとこれから起こる悲劇は起こりはしなかっただろう。困ったことに彼女その言葉で理性を飛ばしてしまった。息子に構う時間が無かったとは言え息子への愛情は深かった賢者は歪んでしまった。

「傷持ちに私達は甘かったようですね。この犠牲を生み出したのは彼らと言う事ですね」

 内に浮ぶその激情を誰一人知るわけも無く。彼女は最愛の息子を抱きしめ、悲劇の涙をこぼす。
 救われない、彼の起こした結果は誰も救わない。これより獅子の鬣の名を持つ国から傷持ち狩りを起こすことになる。その全ての原因は海晴の所為で、これから傷持ちはその凄惨たる処刑の歴史を作り上げていく。

 人間を吊るし上げて笑い声を上げる。
 そんな未来地図が描かれた。その全ての原因は、一人の男にある。

 これが異世界の世界に伝わる魔女狩りの始まりだ。傷持ち狩りはこれから先、加速度的に広がっていく事になる。その全ての原因は一人の男にあるのだが今更語るべくもないことだ。

 賢者の言葉など地獄のように屍をを並べる作業がこれから始まるという解説だ。

「王に直接頼む。この原因を作った傷持ち全てを皆殺しにする事を」

 誰一人彼女の最低を疑わない。彼女は英雄だから、彼女は絶対に正しいから、そしてそれだけの証拠と怒りを彼らは植え付けられていた。彼らが最も恨むべき人間がそれを植えつけたのだ。
 結局すべて彼のせいだ。哀れな話だ海晴が動けば、憎しみが連鎖するのだろうか。

 だがそれは確実に彼の引き起こす事態だ。すでに太陽門から逃げ出した彼には、その事実など知りもしないこと。
 しかしいつか突きつけられる事実だ。

 全て兵が消え去り泣きはらした賢者は狂う。ここまでされる理由は無かったはずだと、ここまでされるほど悪い子じゃなかったと、彼女の怒りは加速度を増し悲劇を作り上げる。そして自分の身の内にこもる、恐怖に近い孤独も連動されるようにあふれ出した。
 愛しい息子を撫で回す、せめて安らかな眠りを紡ごうと、子守唄を歌う。救われない息子の為に、その声は地下牢から零れ出る。その声に腐臭にあふれ出す、その匂いは死臭でしかない。
 その歌の先と後ろを見れば、誰一人としてその歌を聴いても無残な殺人賛歌にしか聞こえない。

 息子のために流す涙ですら醜悪なものに写り、流れ落ちた涙は地面で跳ねると汚泥と怨嗟が世界に広がった。


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