鬼の花婿 

 序章 山には鬼が……


「山には鬼が住んでいるんだぞ」

 それは親父が俺に発した言葉の中で一番印象的なものだった。
 じりじりと肌を焼く熱い熱を帯びた夏、陽炎が世界を歪ませ異界へと変貌させる、そんな夏。俺が父親と離れるその一週間前に教えられた最後の知識、二人して山を見ながら最後の家族生活を楽しんでいた、故郷最後の記憶。

「山には神様がいるんだぞ」

 山には……、父親はそう言いながら何度も何度も俺に声をかけた。
 意味がわからないが、ただ父親の言葉を聞き漏らさないようにと必死に聞こうとして首をかしげていた。だって最後になることを知っていたから、もしかしたら一生あえないとわかっていたから俺は父親の言葉を聴き続けていた。

 あぁ、懐かしい

 そんな記憶、山には鬼が住んでいる、山は異界、山は神界、昔から人は山を別の世界と認識していた。父親は俺にそのことを教えてくれていた。
 いつも思い出す、その記憶、その知識。

「ならさ、親父は会ったことあるのか鬼に?」

 そう何度繰り返したことか、親父は照れたように笑う。頷いていた、どこか恥ずかしそうなそのさまはいったい誰の事を指しているのか子供のころにはわからなかったが今となってはすぐにわかる。

 お母様、大学を卒業した息子に対してこんなことを言わせることを命令してそれが逆らえずにいる辺りでもう決定事項である。

 だって鬼やもんあの人、今ならそのことに関しては父親と一緒に同盟が組める程度には理解したと思う。だが今でも思う、あの二人離婚したとはいえいまだにそのことを後悔している節がある、いや理由は知っている。俺のせいだ。

 たぶん五歳ぐらいのころだと思う、それまでは一切何の問題もない健康優良児だった俺だが、壊れた。

 どこをと表現すること自体おかしい、全てだ、世界が壊れたように、俺の体も一瞬で壊れた。俺だけが一切合財まとめて壊れた、別に体力的にどうというわけではない、ただからだの感覚が壊れた、世界のハザマにいるような恐怖にとらわれ。自分だけがいないと感じるような地獄に叩き落された。

 圧倒的といってもいい孤立感が―医者は鬱病と診断―俺を苛んだ。それと同時にまるで俺の精神に同調するように右目が壊れた、視界も全て良好なくせに、その目だけが煌々と赤色に染まっていた。

 俺はその治療のためその専門の医師の下で集中的な治療を受ける為、小学生になる数ヶ月前に父親から離れた。

 結論から言おう、治療は成功したというべきだろう、まるでそれは風土病のようにその地域から居なくなったとたん無くなったのだ。だがそれでも壊れきった体は直ってくれることはないその腐った目からは今もなお赤い色が零れ落ちていた。

 東雲のように明るく、黄昏の様に暗く、昼間のようにかげりに満ちたその目は今も俺が壊れている事を教えてくれているようだった。

「山には鬼が住んでいる」

 最後にその自分の故郷を見て思ったことは、その焼け付くような陽炎の世界でさえ。山は何のかげりもなく青々しく萌えていて、本当に別の世界で鬼ぐらい住んでいるんじゃないかと思うぐらい威圧的で、何より分かれるのがとても悲しかった。

 がたんごとん、

 レールの連結点がずれていることを証明する、ディーゼルまぁ電車といってもいいのだがの音が響く。俺はそんな世界に変えることになった、お母様は心配していたようだが仕方ない、俺は故郷に戻ることにした。だがそれを聞いたときお母様は嬉しそうだった、当然だ親父に会える、そして母もまたあの村で生きてきた一人だ。俺という理由がなくなれば母も帰って当然である。

 車窓から流れる景色は、田んぼ、そして時折住宅密集地、山、山、山、山、山、山、山、山、途中から山しか見えない。

 帰る理由はきわめて簡単、戻りたくなったから、あの風土病のような精神崩壊けれど、…………根本的には何の解決もできやしなかったんだから当然だ。確かにあの崩壊はなくなったけれど、それとは別の感情が年齢を重ねるごとに溢れて行った。

 望郷の念、帰りたくてならなかった。

 あそこには今もなお何もないだろう、過疎の進んだ村だ、それこそ俺と同年代の人間は耐えられずに飛び出してしまうようなところだ。あそこはそう、時間なんて当に止まってしまったそれこそ監獄、いや父親の言った言葉のとおりだろう異郷。

 その言葉がふさわしい、駅から出た瞬間その言葉はさらに確信を深めることになった。

 俺の故郷、山間に位置した畑と、川、ところどころ点在する家、さらに奥まったところにある古びた神社、これだけで構成された村。まだ駅から出ただけではそれさえ見えない、だが記憶だけならそれで十分で懐かしいと思う。それでもやはりそこは異郷といって間違いない場所だった。

 駅からは一直線にかなりボロボロになったアスファルトの道が伸びていた、周りには背丈の威容に長い細い木が連なりその道以外その場所には何もないことを刻み付けている。

 車さえ通ることのないような木の根で侵略された道を俺は歩いていく。
 迎えが来ることもない、する必要もないがただ森林浴をしながら故郷への道を歩む。
 自分を壊した故郷に向けて足を伸ばす。奈落に落ちるような自虐の極点、もしかしたらではなく確実に壊れるかもしれないというのに、足は止まらない。
 
 ただふと……、木がざわつき始めた。

 風も吹いていないというのに、ざわざわと長い木が風に揺られ軋んでいる。まるでそれは俺が来たことに対する警戒のように、警報を鳴らすように木が悲鳴を上げているように聞こえる。

 気のせいだろうが困る、また疎外感を感じてしまう。幼いとき感じたあの恐怖は、俺にとってはトラウマだ、もう二度と感じたいものではない。

 その音は俺が道を抜けきるまで続いた、音はだんだんと激しさを増しているように感じたが木の門を抜ければ視界を焼くような光に目をやられ夏の熱風を肌に感じ、その場に留まってしまった。

 薄暗かった道とは違い、いきなり現れる光は、ゾンビでも滅しそうな勢いを持った太陽の鼓動だ。寝起きのように蛍光灯で目が開けないその状態を少しばかり続けながら光に慣れるようにゆっくりの目を開く。

 それだけで心奪われた、畑、川、点在する家、そして生家である古びた神社、確かにそれだけしかないがそれだけで十分だった。都会のような利便性と蛆の様に沸く人間のあふれた世界はそこにはない。ただ汚染されていない川があり、農耕具機を使わずに作られた畑がある、コンクリートなどで無粋に固められた川があるわけではない、百年という単位で使われ続けた家がそこにはある、無個性に埋もれた見栄えが一緒な家はそこにはない。

 だが別に若い人間がいないというわけでもなく、なんと言うのだろう。平家の隠れ里を連想させるような、実社会から切り取られたひとつの世界のように感じる世界だった。田舎のイメージではなくそれは隔離されたひとつの世界、ぼんやりと見るだけで壊れると心配していた自分の思考が馬鹿のように思える。

 涙を流しそうになるほど懐かしくて、震えるほど帰ってきたことがうれしいと思った、何度も確認して思う。やはりここは自分の故郷で、自分の居場所だと、今の季節は分かれた最後のときと同じ夏、響き渡るせみの声と葉の擦れる音、川の流れとどこか元気な子供の声、何度でも言ってやるここは自分の故郷で居場所だ。

 俺は一歩ずつ踏み出す、離れた最後の場所へ、それこそ何百という月日流れても壊れていないその自分の住処に、かつて戻ることはないだろうと思っていたその場所に、名前さえないがそこは俺にとっての始まりの場所。

 そしてまたつぶやくように思い出す。

「山には鬼がいるという、山には神様が住んでいるという」

 何度も繰り返した、その言葉。そんな山に囲まれているこの村、目さえ腐り墜ちている俺は自分もその鬼なのではないかと思う、赤く腐ったその瞳、腐臭さえ溢していそうなその目は、まるで人間とは別種の異形を俺に感じさせるのだ。

 左目を閉じ、右目で世界を見る、何も変わらないがやはり何か違う違和感があった。

 そこは山、神がおわし鬼が君臨する世界のハザマ何がいても可笑しくないその目の前に見える異質が俺を見ていた。いや違うか・・・・・・、目の前には一人の女が楽しそうに、待ち遠しそうに俺を見る。あちら側は右目を閉じその青い目で俺を見ている。

 なんだそれは、こちら側は穢れた赤、あちら側は清浄なる青、何でそんな人間がここにいる。

「ほぅ、穢れか。同胞の分際でよくもまぁそこまで腐れるだがまぁ迎えに来てやったぞ」

 ふざけるなよ、夏の陽炎が全てえぐれる。なぜ合わせ鏡のようにそれを感じてしまうのだ、そこに履物を着た女がいるどこか人外の魅力を秘めた悪夢、絹のような黒い髪がこのくそ暑い夏でさえ涼しげに風に流れる、気の強そうな表情をしているがそれさえ魅力になるのだろうその左目さえ無ければ俺はきっと見入っていただろう。

 まるでも服のように黒い着物を着て白と黒…………そして際立つような青をしたその女は、俺のと同じような表情をして、笑いかけた。

「お初に合間見える、私の名は姓を川坂 名を羽間。同胞の一人よ、穢れた一匹、己の名をなんと申す」

 やけに古めかしい言葉、穢れたと何度も繰り返す。だがそれに違和感は感じない自分がそれを事実だと受け止めているのだ。

「平坂……、葦船」

 口から一つ、名を溢す。生者と亡者のような名の明かし方にあきれ返るが、どうしてもそのようにしか答えられなかった。だってそれだけの境があると思ったのだ、あちらはどう考えても生気に満ち溢れているが俺はどうだ、壊れて腐り落ちているからだのどこに生気があると言う。

「ほぅ!!」

 手を叩いて女は喜んだ。
 すばらしいと思うように、今まであった武器を突き立てられたような緊迫感がそれではじけとんだ。

「そうか!!葦船、奇形を捨て去る船なるほどなお前らしい、そんなふざけた名前内包する意味に捨て去られたか」

 何が言いたいお前は、睨みつけるようにして口を開く。

「すごい失礼だなお前、まぁ否定はできない。どう考えてもあんたとは違う、この赤い目はどう見ても腐り落ちた果だ」

 女はやけに楽しそうに俺を見る、その姿は間違いなく見た目相応。いやそれよりも幼ささえ感じる、天真爛漫とさえいえるだろう楽しげな表情だ。
 俺は自分の赤い目を指差したが、女はそれさえおかしいと思うのかさらに表情を明るくした。

「ふん、お前が奇形なのはその目じゃない。むしろそれは当然の形だ、この世界に違和感を覚えるものが何を言う」

 わからないこの女が何をいいのかわからない。だが平然とする、なぜかそれが正しくて怯えることが間違っていると思うから。

「残念だがわからない、あの時は怖かっただけだ。自分が自分で無いそれがな」
「まぁいい、私はお前を歓迎しよう。川と坂の境で、ここはどうせ生者と亡者の境さえ泡沫になる場所だ、お帰りなさいだ葦船」

 お帰りなさいか、そうか帰ることを認められたのか。その山の神のように美しい女は楽しそうに笑いながら、手を差し出す。
 きれいな手だ、俺みたいな腐った人間の触るような手ではない。青が清浄なのではなくこの女そのものが清浄な存在であるように、その差し出された手に手を伸ばすことをためらった。

「ふむ、当然か。同胞とはいえ一度は穢れた存在、簡単には触れることも出来んか。だがまぁ、そんなことは私に構った事ではないな」

 強引に彼女は俺の手を引っ張る、背筋に氷でもぶち込まれたような痺れが走り一瞬思考が止まった。だが感じた、あの時と同じ疎外感を、それと同時にそれが泡沫と騒ぐ。 氷を溶かすように暖かな彼女の手がその疎外感を溶かしつくす。

「お前はもう一人ではないからな、同胞がいる、ここに青と赤の番がいるではないか。今はそれで満足しておけそれに蛭の子を昼の子に変えるための船は穢れを受け止めるだけの力を持つべきであろう?」
「あぁ……、まったく訳がわからないがつまり別に腐っていようが怯える必要は無いってことか」
「そうだな私の言い回しは常にわかり辛いだろうが気にするな。葦船、まず間違いなく私はお前の味方だからな信用してくれ」
「するさ、俺は腐り果ててるってのにこんなにも俺を心配してくれる奴を裏切ったりする奴と思ったりしないさ。まぁこれからもよろしくしてくれ、この村に俺はようやく帰ってきたんだ」

 すこし握られた手が強くなった。

 くつくつと抑えるような笑い声が溢れた、美人さんと言うのはどうやら何をしても綺麗に見えるようで俺はようやく目ではなく彼女を見て目を奪われる。だが次の瞬間悪寒が走った、この類の感覚は当然のように理解しているお母様だ、だがすぐにその悪寒は消えた。

 今までと同じ表情を顔に刻み優しそうに口を開く。

「だな、いいぞいくらでもしてやるそんな事お前と私の仲だからな。しかしながらな、一つ君は忘れているぞこの村に帰ってきたのだ最初に言う言葉があるだろう?」

 わかってるよ、お前は言ってくれたんだからそれぐらいのこと当然だろう?

「ただいまだ羽間、じゃあ神社までの案内をよろしく頼むよ」
「ついて来い、久方ぶりの故郷だ。物珍しい所はないがうろちょろするな私の役目はお前をあの家に連れて行ってからなんだからな」
「了解した」

 手を引かれて歩く、子供のように男は引っ張られ、女は力強く歩く。
 男は笑い、女も笑う、どこか楽しそうな声。
 その二つしか声は響かない、まるでそうこの世界には二人しかいないような……

「おいてめぇ!!なに力いっぱい俺を引っ張ってやがる、って言うかなにその腕力その細腕でなんで俺を走りながら引っ張ってんのー」
「さぁ、さあ、早く神社に行くぞー」

 女の顔はやけに楽しそうに、俺はなにか疼くものを感じながらこの村唯一の聖域に駆け出した。

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