三章 悪魔に憑かれた彫刻家

 必死に足掻こうとして結局何も残らず朽ち果てていくものたち、彼らの足跡に意味があるかどうかは、彼ら以外が決める事はできないのだろう。
 だが彼らを残すかどうかは、他の者が決めるのだ。しかし悲劇は人に好かれない、しかし悲劇は往々にしてある、人の感情渦巻く螺旋の中に間違い無くそれは起こり続けている。なら人が目をそらすものに価値を与えてやるべきだ、それは向き合うものでありそらす物ではない。

 人々を眼前のものを見よ、これが悲劇のなかで生き続けた、哀れな亡者、偉大な英雄、そうこれこそが人間のあるべき姿。

 かつてそんな言葉を彼は聴いていた。
 彼の永劫の憧れである、ファルカイアその人の言葉である。彼よりもひとつ前の世代の中でも群を抜いた才能を誇り、彫刻だけではなく様々な芸術の文化に影響を与えたとされる人物だ。
 もう五年ほど前、戦争に巻き込まれて死んでしまった惜しまれるべき人物だ。

 悲劇を語った稀代の芸術家は、その悲劇によって人生の幕を閉じてしまったのだ。そんな彼女が残した作品の中に、魔女と呼ばれる作品がある。これは彼女を語る上では絶対に忘れてはならない作品だ。
 彼女の作品における根幹は全てこれに詰まっている。と言っても過言ではない、丁度彼女が油が乗っている時期に作り上げた作品で、本人ですらこれを超えることは難しいだろうと言ったほど、優れた代物であった。
 これがフェルドエスが出会った石の魔女、たった一人の男の人生を台無しにしたこの国に未だに残る国宝の一つである。

***

 さて一つ悲劇について講釈を垂れよう。
 悲劇なんぞと言うものは、最終的に破滅する物語と大雑把にくくってやってもいい。だが結局のところ、全てはよほどのことがない限りどこかであった事に過ぎない。
 最終的には機械仕掛けの神様以外が、どう足掻こうと、足掻くだけで終わってしまう物語だ。

 だがそれさえ人は意味を持たせようとする。結局のところ、良くあること、悲劇にしろ喜劇にしろ、いつかどこかで、いつの日かどこかで、絶対におきてしまうことに過ぎないのだ。
 そこの男、分かるだろう結局のところ、人が生きていく限りどこかで起こる陳腐で、必死な、だけど意味だけは残るそんな話なのだよ。

 幸せはあるのかといわれれば、ないのかもしれない。もしかするとそれ自体が幸せなのかもしれない、単体で見れば不幸な話も、大局を見れば英雄譚になるかもしれない。結局のところ個人にしか意味がないのが悲劇なのだ。
 周りに価値があるならそれは悲劇といえない。英雄譚と悲劇の差はそこだよ、そこにしかない、結局人間によって圧殺されるだけなのだから。

 笑える話だろう、その程度なんだよ悲劇なんていうものは。
 しかしな、僕はそんな悲劇がどうしようもなく宝石に見えるのだ。個人しか分からない、自分にしか価値のない物語、たった一つの歪に磨がれた宝石のように感じるのだ。

 そういいながら、今代の最高の彫刻家は楽しげに笑ったのだ。
 かつてファルカイアと言った女が宣言した、その言葉をそのまま言っているようにしか感じないが、その言葉に身震いさえ起こるような真実があった。

 わかるかい、わからないなら、諦めた方がいい。
 これが君の師匠になる男だよ。こんなどこにもである題材に心血をそそぐ人間さ。

 彼はそんな悪夢の先に目を覚ます。
 たった一人だけ彼が叶わぬと思った偉大なる彫刻家、フェルドエス=ロウザイズ=マイステンに弟子入り志願した時の言葉だ。いまだ二十と満たない若者に彼はあの時恐怖し、同時に尊敬を抱いた。
 彼のうちにこもった情熱と信念は、はっきり言えば常識のずれであり、何よりも彫刻と悲劇を崇拝していた化け物様にも見える代物だった。

 実際として彼は未だにフェルドエスに対して叶わぬという感情を抱き、何より未だに彼と言う人間を崇拝していた人物の一人でもある。確かに彼はフェルドエスを宮廷彫刻家から追いやった人物ではあるが、それは崇拝する彼がフェルドエスに政治に縛られて欲しく無いと言う願いもあった。
 フェルドエスの弟子としては、無能としかいい様がなかった彼は、一週間ほどで逃げ出してしまうのだが、それはあれは一代限りの奇跡だと言う事を理解したからだ。
 ファルカイアが継続する輝きであるなら、フェルドエスは綺羅星のように一代で終わってしまう才能だ。

 どちらが素晴らしいかわからない。だがあの才能は受け継げないのだ、そうなのであれば彼の才能を発揮させ続けよう。そう考えたのは彼だけだった、どうにもきな臭い噂が彼に流れていた所為もあるが容易く、それはなされた。
 日常の雑事に煩わされて不機嫌だった彼は、王の命令に飛びつくようにして市井に下ったわけだが、それでも彼の作品を手に入れようという人間がは少なくない。彼自身もまたその一人であり、弟子を抜ける際に渡された。
 夜光行脚と呼ばれる作品を未だに大切に飾り続けているぐらいだ。

 せめてこれを超えたいと言う願いもあるのだが、同時に越えられない壁として目に映るのだ。しかし彼が市井に降りてやっている事を利いて驚いたのも事実だ、私塾などを開いてると言うのもそうだが、彼に人を教える能力があったことを彼は驚いた。
 リリスアス卿にその話を聞いて、驚きの声を上げたのもの最近の話だが、どうにも真面目な教師を勤めているらしく更に驚かされた。

 専門の分野で教える事はできないくせに、こういう専門以外の分野は人に教えられると言うのもある意味ではフェルドエスらしいのだが、あの彫刻に全てをささげた男がただで、何かをするとは思えないのだ。
 心の安息などと言うものがあれにあるとは思えない。
 
 不確かな崇拝は、彼を完全に人間扱いしていなかった。
 憶測で彼はそう願っていたのだろう。あまりに隔絶したそれは、人を神のように扱ってるのかもしれない。
 ラジャクはその崇拝者であり、信者であった。
 神と呼ばれる男はフェルドエス、その尋常ならざる才能に彼は飲まれているのだ。だからこそ気まぐれと言う代物に、意味を持たせたがっているのだろう。本人が知ったらのなら馬鹿を言っているんだと呆れてしまったものだろうが、そういうことを言う人間もここにはいない。

 だがそう思われてもラジャクの知るフェルドエスは仕方なかった。
 彼が弟子として生活している時、まさに彼は鬼といっても可笑しくなかったのだ。その鬼気迫る感情から作り上げられた作品は、彼の心を虜にしてやまない。
 彼は憧れていた、自分もこのような作品を作りたいと、だが望んでもわかる差に絶望し。いまもなおも飲まれるその作品達に、呪われるように取り込まれ続け、それは崇拝に変わってしまったのだ。

 彼は夜光行脚を軽く薄めで覗き、諦められない芸術の願いを望んだ。どれだけ絶望しても彼は諦められなかったのだ、フェルドエスに届きたいと。だからこそ今もなお作品を作り続けている。
 フェルドエスがそれを知れば腹を抱えて笑ったことだろう。自分の出来る作品を書いているだけとでも言い張っただろうか、だから君の作品を作ればいいんだとでも言っただろうか。

 最も正解は違う「うぬぼれるな」だろう。彼にとってはきっと今までの作品は自分の努力の結果であり、なにより目標はもしかしたらなどの憶測で超えるものではないのだ。そう言うところが気味の悪いところだといい含められるだろう。

 口調だけは。優しい教育者のような人間だった事を、彼は思い出して苦笑した。
 そのことを思い出し再度、彼が教えていると言う私塾のことを考える。情報の中には酷く彼が入れ込んでいる少女が居ると言う。

「しかし彼が育てる人材か、常識で考えれば凡人、理性で考えれば変人、経験で考えれば奇才、本能で考えれば偉才か、これはナージェンドック卿に伝えるべき事なのだろうか。それともこの危機が終わった後のほうが」

 賭けにしかならない人材である事を完全にラジャクは見切っていた。
 フェルドエスと言う人間を少しでも知っているのなら、きっと誰もが同じ反応をしたことだろう。人の見る目がないとは言わないが、彼に見初められる人間なんて言うのは、それこそ悪魔がついているような才能の持ち主か、どこか人間としての感情がないような失敗作ぐらいの物だ。

 少なくとも本気で誰もがそう思うぐらいには、フェルドエスと言う人間の信頼感のなさだろう。
 実際は結構真面目で礼儀正しいが、少々反抗的なところが残念だが、生まれの所為で去勢は出来る程度の代物、結構な優良物件なのだが、信頼と言うものが分かりやすく証明される一端であろう。
 偶然だが真の天才と言ってもいい少女が、実はこの国に存在しているのだから驚きだ。しかもそれは悪魔によってその才を伸ばされるのだから、どこの英雄譚だと笑えてくる始末だ。

「ま、いいだろう。本当に才のあるものなら嫌でも上に登ってくるだろうしな、それにフェルドエスの奴がなにをしなくてもリリスアス卿がどうにかするか、あの姫騎士はその辺りの鼻の効き方が野生染みているし」

 何より所詮は宮廷の娯楽担当、そこまでのことを考えるいわれもないかと、自分の凡才振りを確信しているからこそ、常識を超える非常識の考えに今は身を任せた方がいいと、ひどい楽観振りを見せてしまう。
 だが仕方ないのだ、今の状況は何故国が存在しているのか本当であれば分からない。
 それ程の状況下だと言うのに、なぜかそれを保っていられる現状が、政治を多少でも知っていればありえないと思えると言うのに、どうにかなっているのだ、

 それを実行できる上の非常識に、自分のような凡才がなにが出来るというのだろうと、最初から彼は諦めていた。
 自分の本文ではないからこそ、そう言うことに対しての諦めが酷いのだろう。

「それでも愛国心が無いと言うわけではないんだが、己の凡夫振りに涙が出てくるよ」

 何より自分では本当にどうしようもない部分なのだ。
 芸術のみに打ち込んできた彼が、国をどうこう出来るとも思っていない。何よりどうにか出来ない事をどうにかしようとしても失敗しかないだろう。
 そう言う意味ではぬきんでた才能を持つものたちが羨ましい。だが時々彼はこうも思うのだ、自分に才能がなくてよかったと。

 こんなふざけた状況下でしか彼らは力を発揮する事ができない。それ以外では力をもてあましてしまう事だってあるのだろう。そう言う意味では自分は幸せだ、こんな精神の切裂かれそうな状況で何もしなくてもいいというのだから、なにより平時であっても力をもてあますことがないだろう自分に感謝をする。

「全く才の無い事に絶望しながら、そんな代物がないからこそこうやって今状況に甘んじる事ができる。便利なようでなんとも厄介な代物だろうか」

 才能、その壁ともいえる代物に、ラジャクは最近になって同情するようになっていた。
 今のような状況でもなければ彼らは、力も満足に出せず、だが人間だからこそ精神を病んでしまうだろう。だが凡夫の自分には最初からそんな力がないのだからと開き直れる。

「無能な働き者にはなりたくないからな。働かない無能になっておくべきだろう」

 天才達に壊れた時自分はそれを過たずに、こなすだけでいい。
 そう考えれば、フェルドエスの教え子の話などあとでもいいかもしれない。無能は無能らしく、無様を晒して何もしないほうが社会のためだ。
 そんな事を考えているとふと作品の構想が浮かび上がってきた。

「アマデウスなどと言うのはどうだろう。凡人の神、これはフェルドエスにだって作れやしないだろう、凡人は凡人なりに天才を超えてやるしかないのだろうから」

 歳をとれば妥協を通り越して開き直るものだと彼は笑った。
 かつてはフェルドエスを憎んだこともある、呪った事も、妬んだ事なんて当たり前のように、だと言うのに今は同情だ、そして今になっては感謝だ。

 どうにもこうにも、時間は人を変えすぎるものである。

「私に出来る事など些少の事、それを細々とやって生きるのが一番だと、こんなことに気付くのにかなりの年数をかけたものだが、存外あっけないな」

 そういいながら彼は頭にある図面をさらさらと紙に大雑把に書いていく。
 浮かび上がっただけの妄想のような塊に、感じるままに滑らせるデッサンに、今までにないさえと手ごたえを感じて嬉しくなる。

 いつの間にか月明かりだけが明かりに変わったというのにそれさえ気付かない。
 部屋中が青白い光に包まれてしまったと言うのに、そのかすかなアカリさえも彼には太陽のように感じているのだろうか。
 淡い光の影が更に艶かしくそのデッサンを彩る、凡人が眠る夜と言う名の世界で、彼は凡人の神を作り上げてゆく。

***

 本日フェルドエスはおねむのため動きたくありません

 部屋にそんな看板が立てかけられていたのは、客に対する挑戦と見た方がいいのだろうか。最もこういう人間である事は周知の事実であるので、またかと呆れて溜息を吐く者達しかここには来る事は無いのだろう。
 世間的には悪魔に魅入られた芸術家なのだから仕方ない。

 ここに来るのは、天才少女か国最高の将軍、あとはその使いと、ここの住人ぐらいだろう。

 とは言っても、まだ一仕事終わって時間がたっていない。こうやってだらける事に何の不都合があるだろうか、独り身で自堕落に生活する男なんぞこの世界にはよくいる。彼もその一人だし、芸術の分野はともかく他の事が極端に優れているわけでもないのだ。

 完璧な人間がいないのはどの世界でも共通認識ではあるが、このたびの客は少々勝手が違っていた。激しいノックを何度も行い、近所迷惑に加えて睡眠妨害と言う、大人しい人間が怒鳴り散らす要因の一つの完全に踏襲している。
 ただどうにもフェルドエスの眠りは深いようで、簡単には起きてくる気配が無い。

「く、ここに悪魔着きがいるとの事でしたが、不在ですか、それとも身を潜めているのでしょうか」

 黒い修道服を着た人物は、悔しそうに声を漏らしながら、どこか怯えている表情を気丈な精神を持って必死に定常を作り上げるが、どうにもぎこちなく見える。
 深く被ったコルネットが頭を覆っているが、そこからさらりと流れる金に濡れた髪は、扇情的ですらある。だが今から起こることへの戸惑いと、現実との格差に顔を真っ赤にし瞳に涙を溜めていた。

 なんどノックしても反応が無い、一世一代の決意を持ってここまで来たというのに彼女とっては、気勢をそがれるフェルドエスの行動だろう。とは言っても、懐に忍ばせた銀の短剣が、彼女が彼にとって招かれざる客であると言っているようなものなので、ある意味では妥当な行為だ。
 ただ眠いだけの彼の行動ながら一番正しい選択肢のようにも思える。しかしここで強引に部屋に老いられても起きそうに無い深い眠りについているのだろう彼は、ある意味では絶体絶命だ。

 しかしどこか怯えた表情の女から見れば、この扉は絶望的な代物に見えてしまう。
 悪魔と呼ばれる男の名前を聞き、正義感からこの場に来た彼女は、それでも犯してしまう自分の禁忌に恐怖しているのだろう。
 今から人々を惑わす悪魔を殺す。自己犠牲の感情を山のように用意して、銀の剣に正義をかたどらせる。だがそれでも、人を殺すことは怖いのだ、ただ悪魔に疲れただけの哀れな人の救済、それが彼女に役割であった。

 敬虔なシスターであり、悪魔と言うものに対して敵対の感情を持っていても仕方の無い話しだ、同時にそう言う意識があることが好ましいのも間違いないのだろう。
 だが誰にも言われること無く率先して、人殺しを行なおうとするこのシスターの発想はついていけるものではないのも事実だ。最初は義憤に駆られての事だった、なにしろ悪魔憑きがいると言うのに、誰も何も使用としない。

 そんなことではいけないと傍迷惑にも立ち上がったのが彼女だ。
 この世界には聖人と言う実際に神に選ばれた人間がいる。だからこそ信仰の深さは、現代と比べても深いものがあるだろう。
 その深さの中でもドツボにいるのがこのシスターのような存在だ。

 だがそんなシスターだからこそ、信仰と禁忌の間で揺れ動くのも仕方の無い話なのだろう。それでも事を起こそうと言うのだから、団短と言うべきなのかそれとも宗教狂いと罵ってやるべきなのか。

「どうしよう、ここはやっぱり」

 強引にでも押し入るべきだと、考えてもみるが失礼じゃないだろうかとか、今からその手元の武器で殺人を行なおうと考えている人間の発想だとは思えない思考をぶちまけつつ。
 このままではいけないと、扉のノブをガチャガチャと回してみるが、普段は鍵などかけてもいないくせに今日に限って睡眠の邪魔をされるのがお断りなのだろうきっちり施錠されている。

 それが余計に彼女の気勢をそぐわけだが、誰もそれに対して返答はしてくれない。それどころか、いつの間にか人が彼女に視線を向けていることにすら気付いていないのだろう。
 スラム街としては治安もいい部類に入るこの場所だが、シスターのような鴨に近い存在が来る訳の無い場所でもある。目立ってしょうがないわけなのだが、それを注意してくれる人はいない。

 最もフェルドエスの住むこの辺りは、ある理由から市街とさほど変わらない治安を保っているお陰で、彼女がどうにもなっていないだけなのを後日知る事になる彼女は、酷く自分の軽率さを反省する事になるが後の話であり今は関係ない。

 最もフェルドエスの住むこの辺りは、ある理由から市街とさほど変わらない治安を保っているお陰で、彼女がどうにもなっていないだけなのを後日知る事になる彼女は、酷く自分の軽率さを反省する事になるが後の話であり今は関係ない。

 窓を破ろうにも人の視線が多くてそんなことが出来るはずも無く、泣きそうになりながら何度も何度もノックを繰り返す。
 それがフェルドエスの社会的地位更に落とすような行為になるのは間違いないが、狙ってやっているわけでも無いのに、対象に対して確実にダメージを与える手腕は流石と褒めてあげるべきなのだろうか。

 だがその社会的地位の落下を本人が全く気にしないから意味が無いのだが、大して意味が無いのかもしれないが、これより裂き彼は女をもてあそんで捨てた男と言う悪い噂が立つようになる。

「お願いです、私を苦しめずに早く出てください」

 繰り返すノックだが、眠りが深すぎる彼には届かない。
 こんこんと静かな町に響いているが、遠目に刺さる視線など彼女は気付かないだろうか。唯そんな視線の一つが強くなり、どんどんと近付いていく一人の影が、そのシスターを蹴り飛ばす。

「邪魔なんですけど、あんた」

 そんな声が背中を蹴り飛ばし、べたりと扉に顔面を叩きつける。
 今までに無い激しいノックにより、扉がぎしぎしと軋んでいたのだが、シスターにはそれを感じる余裕など無かっただろう。
 痛みのあまり今までの思考全部が吹き飛び、真っ白になった頭は、何が起きたのかわからず必死に顔を押さえて悶絶していた。

 んーんーと押しつぶしたような悲鳴が、蹴り飛ばした当人は不快だったのか表情が酷く歪んでいる。
 基本的には実は喧嘩っ早い声の主は、その姿に罪悪感を感じることもなく見下ろすだけだ。

「教会の修道女が何のつもりでここに来たのかわかりませんが、邪魔そのものですよ」

 そして彼女に浴びせられる言葉は、あまり育ちのよろしくない言葉。
 それなりの作法を知る者から見れば育ちが知れる、だが恐れを知らずに我をはれるようなその行動には憧れを感じささせてくれる。
 そんな存在は教会というのが嫌いなのか、修道女が嫌いなのか、少なくともあまりいい感情は持っていないのは態度から見て取れる態度を現在進行形で行っていた。

「な、なんですか、ひどいじゃないですか。何なんですかあなたは、私は何もしていないのに」

 自分の手に持っている銀の短剣はいったいなんだと、誰もが思うだろう。
 当然だが彼女をけりつけた存在も同じだ、もともと勝気な性格もあるのだろうか鋭く目を細めて、獣うなるように敵意を込めた声を朗読する様に連ねる。

「センセイの家に教えを乞いに来ているものですよ。どうにも物騒極まりない女が、恩師の家の前にいるのですから当然の行為でしょう。強盗ですか、それともあの眉唾の審問会の系列とか、どちらでもいいですね犯罪者には変わりないんですから」

 否定はできない、何しろ実際彼女は人殺しを考えてここまで来た人間だ。
 痛みに苦しむこともできずに、ジンジンと疼く顔を必死に整えようとしているが、できるわけもなくひどくゆがんだ表情で、ここにフェルドエスがいるのなら美人が台無しだとでも軽口を放ってくれるのだろう。

 そんなことをしたらそれこそ刃傷沙汰だが。

「は、いえない程度にはやましいことを考えていたようですね。貞淑を装った売女か、それとも変質者かどちらにせよ性欲というものが根絶しているセンセイには不釣合いすぎますけどね」

 彼女の暴言にあいた口もふさがらない、だが反論しようにも自分の罪深さを理解している彼女には、それに対しての言葉が浮かぶことはない。
 悪魔を殺しに来ました等と言うような馬鹿は、常識的に考えればいるはずもない。
 規律の中で生きる彼女にとって、それは認めざる行為であり、本来吐き気のする異端なのだ。言葉にするのすらおぞましいほどに、自分より幼い少女から高圧的に去らされる視線は、罪を裁く裁判官のように彼女の罪悪感を駆り立てる。

「し、知りません、ただここに住む悪魔憑きに話を聞こうと」
「あなたって馬鹿ですか、悪魔なんてその辺にいつもいるでしょう。勝手に人の師を侮辱するような暴言は人としてどうかと感じられますよ。大体風評でそんな物騒なものを持ってくるなんて妄想の能力が肥大化しすぎてるんじゃないですか」
「え、う、ああの、いえ、あの、ですが」

 年下とは思えないような冷めた視線が突き刺さり言葉がうまく吐き出されない。
 ドモリの様に声が何度も継ぎ接ぎに変わり内容を理解することが難しい。こういう人間が逆上したら一番危ないということも彼女は知っていると言うのに、視線を変えることもなく傲岸不遜に世界に居座る。

 それがもしかすると土壇場の彼女の素質なのかもしれない。
 死に際にあろうと変わらぬ姿勢を貫くと言うライニアと言う少女の生き様の象徴のひとつ、逆上さえも揺る策感情の圧殺は、一種の恐怖を彼女に抱かせる。

「そんなに怯えなくてもいいのですが、信仰は勝手にすればいいですけど、妄想はやめてください。それで何をしたいかわかりませんが、馬鹿の極みである事だけはわかります、事実の実証ぐらいは行っておいた方があなたの為ですよ」

 そういうと彼女の手からするりと銀の短剣を盗み取る。
 あまりに手馴れた仕草であるが彼女の写本の前の収入源を考えればそれも妥当だ。だが同時にそれがある意味ではすぐに解消される物語のきっかけなのかもしれない。

 シスターは大地に根を張るように聳え立つ巨木の精神を持つ少女を見る。
 太陽のように赤く燃え盛る光の象徴は、妄信をするべき神々の具現か、今宵ここでひとつの神託を受けるかのごとくシスターは目を輝かせた。
 しかし彼女はそれに気づかない、たいした事をしたつもりもないのだろう。これから自身に襲い掛かる厄介ごとの波を感じてさえいない。

「センセー、約束の本借りに来ましたよー」

 暢気に叩かれる小気味のよい音が響いている。
 なんどもセンセーと響く声は年相応の少女のようにも感じるが、先ほどの勇ましさを忘れさせるほどではない、それどころか魅力と言うものを明らかにするための行為のようにさえ感じる。

「ったくあのだめ人間代表格、勝手にあけて入りますからねー」

 何度ノックをしても反応のない彼に痺れを切らした彼女はピッキングをはじめる。どうにもその手馴れた行為はなかなかに堂に入っている。
 扉自体はすぐに開いたのだが、後ろの視線が気になって彼女は振り返ってみる。そうすると熱病でも浮かされたように表情を真っ赤にして瞳を潤ませる傍目には発情したとした思えないシスターがいた。

 先ほどから何度も彼女に声をかけようとするが、殺人を考えた自分がふれていい存在かと苦悩していたのか、ためらう仕草を見せていた。だが目だけは憧憬を、その瞳に厄介事の匂いを彼女はようやく嗅ぎ取った。
 かかわっては駄目な存在だと、妄信対象が変わっただけだこれではと、そもそも自分の魅力と言うものを鈍感に勘違いしている彼女だ、本来であれば同姓だって惹きつけて止まないだけのカリスマが彼女にはある。

 それが今回少しの片鱗を見せただけに過ぎない。フェルドエスからきっと馬鹿だなぁと言われてしまうような

「お嬢様、申し訳ありませんでした。ご不快な目にあわせたようで、私はミケ=トリィエと申します」
「あ、どうでもいいのでさようなら」

 そういうとばたんと扉を閉めて見るが、厄介事がその程度でとまるはずもない。
 まるですがりつくように扉に体重を乗せて、ぶつぶつと彼女の賞賛の言葉をつむぎ始めた。正直先ほどの倍ぐらい不審者だ。

「ああ、鬱陶しい。春でもないと言うのに、頭が陽気な人々は邪魔すぎます」

 流石にそのうるささに気づいたのだろう、ようやくフェルドエスは目を覚ます。
 不法侵入するライニアはいつものことだが、旗から聞けば呪詛のような言葉をぶつぶつと呟く扉の向こうの存在に流石に不快な感情を隠さない。
 なにあれと、視線を送るが、彼女自身もよくわかっていないので首を傾げるだけだ。

 自己紹介されたが、現状のインパクトが強すぎてすっぽりと名前も抜けている。

「確か修道女だった気がするんですが、物騒でセンセイの命狙ってるみたいな感じだったと思うんですけど」
「なんというか聞くだけで面倒な人物だって事だけはわかるよ」

 そういう人間は結構目の前で見てきたからねと笑って見せるが、目は笑っていないので流石にライニアも少々驚いた表情を見せていた。
 ああいう手合いは基本的に面倒ごとの代表格だ。

「そう言えばここで一つ授業をしておくと、あれに関わると祭り上げられるか貶められる、どっちかしかない。しかも妄想でと言う余禄付だ、だから個人的にはああいう手合いとは潰し合いしかないと思って間違いじゃないよ」
「これからの私の将来に必要なことですかそれ、上手に扱ってみるとかそういう事は考えないんですか」
「人を常に信仰とかの色眼鏡で見るような奴らは、根本的に君の理想とはあわないから潰して置いて間違いじゃない」

 本当に神に献身を尽くすものたちは、見ていてす感動すら覚えるからねと、あれはただの妄想の産物にしかなっていないよと笑っていた。
 彼からすれば、彼女の必死な行為も妄想から出てきた暴走に過ぎないのだろう。この手合いに彼は悪魔呼ばわりされたり不当な扱いを受けてきたのだから、自業自得とはいえ当然嫌っていても仕方ない。

 同時に彼は悲劇の収集家でもある。
 宗教の起こした悲劇を知っているし、それが悪いとは思わない。だが自分に降りかかる悲劇を容認できるほど、彼は人が出来ていない。
 別に悲劇のままにしにたいと思う人間は居ないのだ。

 物語の登場人物がすべて望むことがハッピーエンドであるように、彼だって同じ考えであっても何もおかしくは無い。

「だがあのままじゃ面倒だな。たかが修道女如きならどうにでもしてやれないことも無いけれど」
「結構物騒ですねセンセイは、ちょっと楽しくなってきましたよ私」
「意や何を言ってるんだい、君がするんだよ。この世で一番面倒な馬鹿の相手だ、君が思う限り最高の手段を使ってどうにかして見せようか」

 当然のことだが彼女はすごく嫌な顔をしている。
 面倒ごとどころか一生寄生しそうな性質の悪さを感じているのだろう。しかもそれは十中八九間違っていない、これがまだライニアが男ならよかったかもしれないが同姓でもあのうざさは尋常ではない。
 彼女自身が標的にされかねないと思えば、表情がゆがんでも仕方が無いだろう。

 どちらかと言えば大雑把な彼女に対してこんな表情をさせることの出来る扉の向こうの存在に、賛辞を送りたくなってしまったフェルドエスだが、彼女の気持ちを落ち着かせる為に肩に手を当て。

「君はこれからあれ以上の性質の悪い奴らと関わるんだよ。嫌がってるだけじゃどうにもならない事もあるから頑張ってみようか」
「厄介払いのためですよねセンセイ、しかも私が断れない理由を無理やり作り出しての」

 満面の笑みで彼女を見るフェルドエスの姿に毒気を抜かれる。
 反論してもこの人には通用しないと言う確信が出来てしまったのかもしれない。彼と彼女では能力差においてライニアが上回るが、フェルドエスは経験で彼女の力を出させない。

 戦いなんぞは相手に力を出させずに、こっちが十全の力を出せばそうそう負けることは無い。彼はそれをかなり高次元で行うことが出来る。
 どこか穏やかな表情も、お気楽に見える性格も、その間隙を突く為の演技にすら見えることがあるかもしれない。

 本来なら彼と彼女では役者が違うが、発展途上とでは流石に経験でねじ伏せられる。
 ある意味ではこうやって鍛えられていっているのだろうが、実は彼は教育者としては素質があるかもしれないと思わないでもない。
 ただし笑いながらに結構なスパルタだ。

 性格的には間違いなく攻める側の人間なので仕方が無いが、困ったように表情を色とりどりに変えて見せるライニアに問答無用の指示を下している。この程度もこなせないのかと挑発的に笑いながら、むーっと口を膨らませる彼女にどうなんだと言わずに行動を促す。

「わかりましたよ、とりあえず黙らせる事が出来ればいいんですよね」
「そうそう、そうやって経験を重ねないとね、君の目指すものの為には必要な技術だよ」

 彼女を毎回のように挑発しながらうまく操る彼を壁のように感じていた。
 この人さえ超える事が出来るなら後のことはどうにでもなりそうとさえ感じさせている。彼も彼女と別分野の天才だ。
 その浮世離れした才能の所為で、他者とは違うところに居るように誰もが思うのは仕方の無いことかもしれない。

 同じ天才であったとしても、分野が違えば同じようにそこには隔絶としたさが出来てしまい。天才は天才を貶めることしか出来ず逆もまた同じことなのだ。
 彼女はそこがまだよくわかっていない、それがわかる頃には間違いなく彼女は彼を越えている頃だろう。

「さあ、いってくるのだ、あの邪魔くさい宗教かぶれを黙らせてこい」
「あーはいはい、それと頼んでいた本を貸してくださいね」
「本は貴重だって言うのに、ためらい無いよね。別にそれが悪いことじゃないけど、僕以外には自嘲して置くように」

 はーいと楽しげな声が響いて、彼は満足そうに頷く。
 今から邪魔な存在を排除してくれるだろう彼女の才能を見るために、表情が緩んでしまうのだが当事者は気づいていないだろう。
 まだ甘いと心の中で思いながらも、どう言うやり方で黙らせるのか楽しみでならなかった。

 ゆっくりと扉を開ける彼女に、まるで歓喜の雨ので注いだように大輪の花を咲かせる存在に、彼女はこいつは迷惑な存在だという認識を強めて行く。
 一生において係わり合いになりたい類の存在ではない。それを彼は知っていたはずだ、だが彼女には経験させる。いったい何を考えているのだろうと思うが、彼がそれを教えることは無いのだろう。

 それを聞く事は彼女はないし、いうような存在なら彼はこんな事をさせようとも思わない。
 彼女からしてみれば、変人の戯言に過ぎないのかもしれないが、この程度も出来ないのに夢ばかりでかい等と言われるのは侵害だ。
 ならば黙らせるに限ると、彼の挑戦を受け続けてみれば、今迄で一番厄介な分類の人間に出会うことになった。

 いったい何をさせようというのかと思いながらも、さっさと終わらせて本を貸してもらう事の方が大事だと意識を切り替える。

「あ、あの」

 そんな彼女の意識を一切無視しての空気を読まない声が響く。
 視線をちゃんと合わせてみればわかる事だが、彼女よりも幾分か年上だ。先ほど彼女に蹴られた時にずれていたコルネットがいつの間にか地面に落ちている。
 そこからは彼女さえ驚くような美人がいた。ライニアに対して過度なほどの感情を向けてくるが、彼女が感じていたのは女としての敗北である。

 先制パンチはなかなか破壊力がありそうな一撃だ。
 その彼女の動揺をまったく感じていない美人なシスターさんは、感動を美麗な表情に刻みよりいっそうの魅力をたたえながら彼女に一歩近寄る。

「私は教会の修道女、アラルミスと申します」
「そうか神に家族を捧げる意味で家名や勲名はなくなるでしたねそう言えば、だから帰れよ」

 自分の常識とすり合わせたあとに出る言葉がひどい。
 しかし無感動にその彼女発現は放たれていた。何を言われたかわからずピタリと止まり、いったい何を申したのですかと首を傾げてみるが、ライニアの視線は鋭かった。

「あーあのですね、あなたの意見は興味が無い。と言うよりもあなたの言葉は要らない」

 フェルドエスは聞きながら大爆笑しそうになって、涙を浮かべたまま外には響きか無いように笑いを押し殺している。
 流石にショックなのだろう、この世の終わりのように顔を青くさせて体を震わせる。
 ここまで容赦なく自分の事を拒絶された事などないのかもしれない。
 だから怯えて体を縮めて涙を流し始める彼女をみて、世界は薔薇色に包まれているのかと問いただしたくなる衝動に駆られたが、我慢し体の奥にしまいこむ。

 これはある意味ではこの目の前のシスターには価値はない。ただこの宗教かぶれを黙らせて帰らせると言う試験に過ぎない。それも彼の予想を上回る形で黙らせる必要がある。
 でなければ彼女は、彼から優しく頭を撫でられるだけだ。

 いい加減に子ども扱いは断りだと内心思っている彼女は、予想を上回ると言うことばかり考えていた今までとは違い、自分を見せ付けると言う形をとる。
 見ていろ挑発的な視線を彼に向けて、笑いをこらえていたフェルドエスを黙らせる。

「私の言葉だけで十分だ。人の言葉の為に動かない、私は私の言葉だけで動く、だからあんたの言葉は必要ない」

 感情をあふれさせるように断言するのだ。
 彼女がフェルドエスに言った言葉はいつも自分ならどうにかして見せると言う自信。なら彼女が言う言葉は有言実行しかない。
 神の言葉なんか要らないと、人の言葉に価値はないと、自分の言った言葉が自分の全てで、それ以外知ったことかと言い張るしかない。

 あらゆる罵倒よりもなお激しい感情は、彼女の末の恐ろしさを具現しているようで、二人してのどがかれるような熱さを感じていた。

「だからもしあなたが神を信仰するつもりなら、二度と私に近寄るな。神の言葉じゃ動かない、私は自分の言葉で人を引連れる」

 ただ涙を流して彼女は呆然と立ちすくむだけだった。
 あまりの言葉だといえばそうだ、何一つ彼女の言動を許さない。ただ力ずくで黙らせる、だが問題はその言葉だ。
 言い切ってしまった、彫刻馬鹿に別の火をつけてしまった。

 ライニアの言葉に呆然となっている彼女は、まだ語る言葉があるのかと視線を強めて彼女を睨む。怖くなる、彼女よりも年の若い子供の目じゃない。
 いったい何をどうしたらそうなるのかと、演技があろうとなかろうと、このとき間違いなくライニアは一つ段階を超えてしまう。

 そしてその視線に耐えかねて彼女は逃げ出してしまう。その程度には彼女は変わっていたのである、それが開き直りの境地だとしても。

「どんなもんですか、厄介なセールスお断りしてきましたよ」
「そうだね、うん、うん、頑張ったよ。予想以上に力技でいったね」
「ああいう手合いにしゃべらせると、妄想を垂れ流してきますから、口を開かせない方向で考えるしかなかったんですよ」

 正解ではあるけどそのあたりは妥当な判断過ぎて彼は面白くなかった。
 だがいった言葉は面白かったと彼は断言できる。

「じゃああの啖呵の責任だけは取ってもらおうか。明日この家にもう一回来るといい、リリスアス卿に合わせてあげるから」

 だからその言葉を認めてやろうと、ただ責任だけはとって見せろと言い切った。
 半分眠いからとぶっ飛んだ発想をしただけかもしれないが、彼女の言葉にはそれだけの力があった。
 一瞬でも人に夢を見させた責任は取ってもらおうと、彼が持ちうる人材のコネクションのうち最も物好きな人物に引き合わせてやろうと笑ってみせる。

「え、はぁ、はあああああ」
「君の夢への手助けだ、今回は合格だよ」

 そのときの彼はとても嬉しそうで、見た事もないほどやわらかく笑いかけていた。

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