序章


 誰だって一度は望んだことがあるかもしれない。自分達のいる世界とは全く違う世界、自分の常識とはまったく別の世界に言って見たいと。
 今そこで意識を失っている彼にも言えることだった。
 甘里海晴は生傷の耐えない少年だ、と言っても喧嘩をするような気の強さも無い。
 単純に言えば彼は虐待を受けていた。だがそれは学校ではなく家で。彼は自分を生んだ母と父そして姉に、日常的に暴力を振るわれていた。

 彼もなぜこんな事をされるのか分かりはしない。だが生まれて気付けば、ずっとこうだった。
 小さい頃は殴られて腕の骨が折れたこともあった。病院には連れて行ってもらったが、その暴力が収まる事は一度としてなかった。鉄串を当てられて、一生消えない火傷が彼の体には幾つもある。

 だが彼はこれが家族の当たり前だと思って成長していた。そんな彼の常識が崩されたのは、初めて出来た友達の家に遊びに行ったとき。
 この時に彼はようやく悟った。自分は家族の中でいらない存在だったのだと、だからこそ彼は今両親に感謝さえしていた。どれほど嫌っていても、高校にまで行かせてくれるのだ。

 彼は高校卒業と共に家族の前から存在を消そうと心から誓っていた。
 家族の視界に入らない世界にいきたい、彼はいつの頃からかそう思いながら生きていた。

 そんな彼もようやく高校卒業する事になる。両親や姉に最大の感謝として朝に頭を下げて今まで育ててくれた感謝を告げた。流石の家族もこれには面食らっていたが、この日から確実に彼は家からいなくなる。
 それがどちらにとって幸せだったかなどと問うつもりは無い。ただ彼はようやく家族から開放され、家族もまた彼を開放するのだ。

「今まで、ありがとうございます」

 だが卒業式の日。彼はそもそも、この世界からいなくなった。

***

 いつそうなったのか理解も出来ない。ただ彼は意識を失ったままこの暗い路地裏で気絶していた。まだ昼頃なのだろう周りは人々の喧騒が遠くから響いてくる。やけに生臭い匂いにようやく彼は眼を覚ますが何が起きたか理解が出来なかった。彼は玄関から出たところで記憶を失っているのだ。

「ここは?」

 彼の溢した言葉はこの路地裏に響いても人には響かない。石畳が道を敷き詰めた日本では余りお目にかかることさえ難しい、それだけなら良いが辺りには誰もいないし、日本と言う名の文明の香りを一切感じなかった。常識に考えて用意されているはずの空調設備など機械なども見受けられない、コンクリートジャングルと呼ばれるほどの場所さえある日本であって、レンガや石を基調として作られた建物自体そうそうお目にかかれるものではない。
 せめて木でもあれば納得できたものであるが、ぱっと見で西洋風のつくりと分かるがどの国の代物か想像も出来ない。

 冷静に見てもこれは異常だった。彼の知識の限りでこんな建物が、しかも明らかに年月を経たその建物が彼の家から学校までの間に在るはずがなかったのだ。

 背筋に冷や水を流し込まれたように体が震え、その場にいることが恐ろしくて彼は走り出した。
 入り組んだ迷路のような道を彼は音のある方向に走る。二つの理由から、それは現実、そして夢、ゆっくり喧騒が大きくなっていく、しだいに光が激しくなり彼の視界が真っ白に焼けた。

 そこは幻想だった、巨大な白い城が彼の視界に入る。人々踊り狂っている姿が見える、それは祭りのようだった。聞いた事の無い楽器から音が流れている、聞いたことのある声で、歌を紡いでいる。どこか扇情的な踊り子が辺りに花を巻きながら、人々に笑顔を振りまく。
 それはパレードだ誰も彼もが、祝福の声を上げている。彼の知っている代物ではない、今までの想像さえ上回る別世界の代物だった。

 だがそれが何を祝っているのか彼にはわからない。それ以上の疑問があったからだ、しかしそのパレードが彼の今までの疑問全てを完全に確信に変える。

「これが現実なのか」

 彼は叶わぬ夢を見ていた、そもそもこの状況さえ彼にとっては夢想の話であったのに、いくら感じても消えないその衝撃に彼は確信せざるを得なかった。
 暗い道を抜けてみればそこは、見たことも無い文化や風習。日本という国とは全く違う、最初はテレビのドッキリなのかとも彼は考えたが、そもそも彼の家の状況は人様に晒せるものじゃない、何よりそんななドッキリをしなくても彼の日常はもはや日本と言う国にあればどの家でもドッキリするような虐待振りだった。

 それに彼は家族の中で一番必要ない子供だ。そんな彼を人前に晒すような事は親はしない。

「あはは、冗談だろうかこんな奇跡」

 もはやその現実を受け入れなければ、彼はもう生きていけない。死にたくは無い、漠然とした思いだが虐待の末に彼が思ったのはその程度の話だ。
 だが彼が本当にその現実を受け入れなくては成らなかったのは、そのパレードにドラゴンがいたからだろう。否定さえ出来ない、あれは生きていた。地面をならしながら辺りを揺さぶる咆哮を放っていた。

 どうしようもない現実の前に彼は、屈服するしかない。ただあきれるほど力をが抜けてポツリと呟いた。

「ここは日本どころか地球ですら無いのか」

 彼の嘆きは、当然の如く騒ぎにかき消されるのだった。
 しかし同時にそれは彼の夢がかなった瞬間でもあったのだ。それゆえに彼はこの世界に一つの希望を見出していた。

***

 現状を把握すればあとは実行だ。
 彼にはこの世界において知り合いは当然家族すらいない。そのために必要なのはこの世界の常識だった。騒ぎの中の話しやすそうなおばさんに話しかけた。最初言葉も合わないと思ったが、今騒ぎの民衆が紡ぐ言葉は全て理解できている。
 勇者様と言う言葉がやけに良く聞こえるが、何処までファンタジーなのだろうかと思い呆れてため息を吐いた。だがこれはありがたい事である、言葉も通じなかったら野垂れ死に以外の選択肢を彼は持たなかっただろう。

「あいよ兄ちゃん、この当たりではまず見ない珍しい髪だね旅人かい?」
「そんなところです。少し聞きたいことがあって、この騒ぎは一体なんなのでしょうか」

 彼の言葉を聞いたおばさんは眼を丸くして驚いた。
 この国じゃ最早常識と言うより、知っていて当然といった話なのだろう。

「あんた一体何処の人だい!! この祭りを知らないなんて、兄ちゃんよっぽどの変わりもんだよ」
「と言われましても、知らないものは知らないので」

 情けなさそうな顔をしたまま頭をかく事しか出来ない。そんな彼の態度を見たおばさんは呆れた様子で語りだした。

「どうせこの国に来て日がたたないでしょう。もしかして今日来たのかい、ここらじゃ戦争があったのよ」

 ちょっと浮かれた様子で、話すおばさんの姿はこの日が来るのを一日千秋の思いで待っていたのだろう。
 戦争なんてものは、しなければしないほうがいいのだ。どうあっても搾取される側の国民は、戦争なんぞ望んでいない。

「そうですね。かなり遠くから着ましたから。この辺りの事情には疎いですがそんな事があったんですか」
「今この国は民族連合と衝突しているんだよ。ルベティ族、マルネフェル族、セルスバンア族の長を中心とした民族連合とね。
 この部族は魔法やその技術が高くて王様がその技術を協力を要請したんだけどどう間違ったのか、その要請が宣戦布告に変わってしまってねぇ。流石に魔刃と呼ばれたルベティ族の王やマルネフェル族の明王、魔王と呼ばれるセルスバンア族の長の前ではこちらの王国もゴミと同じと言った具合だったもんで、どうにか和解しようと思ったんだけど、結局戦争になっちまったのさ」

 まさか僕はそのために呼ばれたのか、一瞬彼に英雄願望が芽生える。こういう物語ならそう言うのが定番であり王道だ。だがおばさんの語りは終わらない。

「こりゃこの国もお終いかと思ったとき、勇者様が現れたのさ。賢者フェルシア様、魔法王ヨグス様、剣人ロウホウ様と共に、そいつらを全滅させたのさ!!
 その戦勝パレードだよこれは、勇者様万歳だよ。ようやく戦争が終わって、私らも商売に精を出さなくちゃいけないのさ」

 …………ちょっとした期待があった彼はへこんだ。
 自分が魔王を倒す敵なそんな良い話があるかと思ったちょっとは、夢を見ても許されると思う。こういう展開ならそれぐらいの役得欲しかったが、すでに夢をかなえた彼は、異世界に対する代償を払ってしまったようだ。

「勇者様は異世界に帰っちまったし。フェルシア様とヨグス様も生きていらっしゃるがロウホウ様は戦死してしまった。それに戦争で大分この国は疲弊しちゃったがね、若い奴はこの国では宝だよ。兵士なんかの召集もあるし、今なら王国学院が無料で人を募集していると聞くから、もしこの国が気に入ったらそう言うところに根をはっちゃどうかね」
「そうですね、この辺りで腰を落ち着かせてもいいかもしれませんね」

 違うそれは全く違う、選択肢がそこしか存在しなかった。コネも無い金も無い、無料では入れる学び舎は彼にとっては相当大きいのだ。おばさんは、若い人がこの国に入ってくることを喜んでいるのか。祝福のように一度だけ手を叩いて、手を握り友好を体全身で激しく表現する。

「そうかい、そうかい、全く嬉しい限りだねぇ。この国、獅子の鬣の名を持つこの国にまた一人、これでまた賑やかになるよ」
「まぁ本当は路銀がなくなってもう路頭に迷いかけてただけなんですがね」
「あっはっはっは、そりゃご愁傷様だ。そんな変な民族衣装着てたら、流石に審査で引っかかるかもしれないね。今日はとても気分が良い、私が世話してやるよ。どうせあんたはこの辺りは詳しくないんだろう」

 これだけ優しくされたことは彼の人生に意味は無い。この世界では自分も人間として扱ってくれる希望さえ見出していた。

「ええ、全くちょっとばかり治安の悪いところを走り回ったぐらいですよ」
「そうかい、いくら戦争が終わっても治安の悪いところはやっぱりあるからねえ。よく服なんか剥ぎ取られなかったよ」

 また豪快に笑うと彼の背中を咳き込むほど叩く。

「悪い、悪いじゃあまずはその服だ、路銀が無いようだ売り払ってしまいな。必要以外のものを売って当面の金にしちゃいな」
「そうですね、確かにこれは未練になりかねないですし。筆記用具以外は処分しますか」
「あんたそれになんか大切な思い出でもあったのかい。出世払いで私が払ってやっても良いんだけど」

 首を振る、この服や鞄は海晴の以前の世界のつながりだ。彼はそれを持っていても意味が無い、この世界の住人に成ると決めていた。
 心配そうに彼を見るおばさん、正直ここまで親身になってもらった事は無い。多少の戸惑いもあるがこれ以上このおばさんに迷惑をかけるつもりはなくなっていた。

「いえ、こんなものはまた運がよければ手に入りますよ。それより今はこの国になれないといけないですからね」
「おお!! 兄ちゃん意外と根性あるねぇ。どうせカーニバルはもうそろそろ終わるんだ」

 結局その日の宿の分まで世話になる。移動の途中でルッコラ=ルッコランと言うおばさんの名前を聞いて、酒場の店主をしているとのことだった。王国学院は寮はあるが、貴族専用のとのことで結局この酒場に宿を取ることになる。立場としては住み込みのアルバイトのようなものだが、これから王国学院の半年ほどこの場所ですごす事になった。

 そしてそれから三年後、彼にとって最大の人生の転機が訪れる事になる。
 この希望に満ちた始まりと世界に心沸き立つものがあっただろう。誰もが喜びに包まれた世界で、価値観も全て違う世界で、何一つ支えなく生きていく少年は、どうやって生きていくのであろうか。
 ただこのルッコラとの出会いは、生涯忘れることの出来ない最大の幸せの日々であったことだけは間違いなかった。


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